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2009年7月

2009/07/23

太陽の死と再生

7月22日は、46年ぶりに日本で見られる皆既日蝕だった。
午前中、テレビ各局ではこの一大天体ショーを総力をあげて放送していて、そんなつもりなかったのに、私も一度見はじめたらついつい見いってしまったcoldsweats01
…で、とても、楽しかった。

太陽が月に隠れて、また出てくるという、その数分間で、宇宙を感じることができたのだ。(テレビでだけど)
一部分だけ月に隠れている地域ができるのだから、その遠い周辺には太陽の光があたっているわけで、太平洋上で観察していた船上からは、遠くの海が神秘的な光を放って夕陽の海のように輝いているのが見えていた。
頭の上の空は真っ暗だというのに。
不思議な光景だった。

自然の動きを敏感に感じ取る動物たちもその瞬間、鳴くのをやめたり、あるいは鳴き出したり、動き回ったり静かになったりして、いつもの昼間の行動とは違う動きをしていたらしい。
木々の葉っぱのざわめきも、葉のうえにたたえる光も水も、違って見えたらしい。

太陽の光というのは、そんなにも私たちに影響を与えてくれている。

ある番組では、「昔のひとは日蝕をこう考えていた」という神話などを集めて話題にしていた。
日本ではもちろん「天岩戸伝説」である。
アマテラスオオミカミが、スサノヲの悪事を憂えて岩戸に入ってしまい、世の中真っ暗になってしまった、というお話だ。
これが「日蝕」をあらわすのか、はたまた「冬至」をあらわすのか、など諸説あるようだけれど、やっぱり「太陽が衰退すると困るから復活を願って、歌ったり踊ったりしてしまう」というのが単純で素直な、生活者の感覚だ。

今日の日蝕でも、たくさんのひとが、太陽の恵みをあらためて感じたと感想を述べていた。
今の私たちの生活では、夜でも電気がこうこうと点いていて、真っ暗な道なんてほとんど歩いたことないし、夜でも特に恐ろしくないし、太陽の動きによって生活パターンが変化するなんてことはめったにない。
けれども、それは、当り前のように太陽の恵みを受け取りすぎているってことで、ちょっと感謝が足りなかったなあ、と、今日のテレビを見ていて、あらためて思った。

太陽が衰退したり、復活したるするさまを、もっと感じ取って素直に生活したいし、たくさん感謝したいものである。

次回の日蝕は25年後だそうで。そのときは私は元気に空を見れているのかなあ。

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2009/07/22

いれものと、その中にはいるもののこと2

観れなかった扉座公演 「新浄瑠璃 百鬼丸」

今月上旬に、紀伊国屋サザンシアターでやっていた、扉座公演。
この演目は再演である。
初演をみたとき、下敷きとなっている手塚治虫さんの「どろろ」のこととか、その演出の組み立ての面白さとか、また大好きな浄瑠璃仕立てであることとか、さまざまな要素が折り重なって、私の扉座観劇史上(こういうとすごいけど…設立のころからけっこう観ているのよ)3本の指に入るくらい、好きな作品となった。
なによりも、(手塚ワールドではこのテーマはかなり語られているけど)「肉体と魂」の表現に、心打たれたのだった。

今回、非常に楽しみにしていたが、わけあって観れなかった。
横内さんのことだから、さらに研ぎ澄まされた表現になっていたのではと、楽しみにしていたのだが、とても残念だった。
なので、今回の公演に思いを馳せつつ、前回(といっても5年くらい前?)の印象から、私の感じた「いれものと、その中にはいるもの」について少し語ろうかと思う。


ご存じ「どろろ」は、父親が天下を取りたい野望と引き換えに、魔物と取引をしたために、体の48の部分を失ったままで生まれてくる「百鬼丸」、そしてひょんなことからそれと出会った「どろろ」が、百鬼丸の失われたからだを求めて旅をする話である。
48の魔物と対決し、それを克服したらからだを取り戻せる、そのための旅である。

マンガの原作ではどろろは可愛らしい子供で、百鬼丸は仮の体のハンサムボーイだったが、舞台ではどろろはいい大人なコソ泥(なんたって演ってるのが山中崇史さんだもんね)、百鬼丸はのっぺらぼうの人形だ。そして影分身のように、「声=魂」役の高橋麻理、「影=肉体」役の累央が登場する。
これが、うまい、と当時の私は唸った。

百鬼丸は最初は肉体がないのだ。
目はガラス玉だし、手足も自由に動かない、口もない、肉の塊みたいな存在なのだ。
でも、「魂」は宿っている。
そして、その「魂」はとても清らかだ。
自分の体を売った父を憎んでもなく、母をひたすら慕い、母に自分の姿を認めてもらうためだけに、肉体を得るべく戦い抜く。
この「魂」に、高橋麻理の澄んだ声がとても似合っていた。

いっぽう、肉体のほうは、ひとつひとつ魔物の壁をクリアしていくごとに、手足を得、目を得て、だんだんと「肉」を持った体でさまざまな事象を感じることに喜びを見出してくる。
本物の手で握った刀の勢い、本物の声で叫んだときの気持ち、本物の目でみた優しい女のひと。
喜びと同時に、肉体をもった故の痛みもだんだんと感じるようになる。

舞台の終盤、ほとんど完全なる肉体を手にした百鬼丸だが、その肉体は喜びよりも、父への憎しみ、母への恨みでいっぱいになってしまう。
肉体を得たからこそ観じてしまった、肉の痛み、現世での生の痛みがそうさせたのだろうか。
いまだきよらかな魂は、必死でそれを止めようとする。が、止められないのだ。

そのころから私は、ずっと「魂」と「肉体」と、その「学び」について考えていたので、これは想像どおりといえどもものすごくショックだった。
肉体は現実のもの、魂は理想郷のもの、と、目の前につきつけられたような気がしたのだ。
魂のままなら、本質的に、そして宇宙の流れのままに、生きられるのか。
肉体をもったなら、その「痛み」でもって、恨みや憎しみといった現実に、のみこまれてしまいそうになるのか。
いやそうでなくするために、人間は「肉体」に「魂」を宿らせて、学びの生涯を送るのではないだろうか。

いろいろなことがぐるぐると廻りめぐって、結局答えがみつからなかった。
今回、新たに観ることで、またその答えに向かえるきっかけになるのかなと思ったが、思いがけずその機会は失われた。
これは、そんなきかっけを与えなくても考え続けることなのだよ、といわれたような気もした。

48という数は、いろいろなところでよく目にする数字だが、人が肉体を脱いで49日目に仏になると言われていることを考えると、その間の48という数を得るために行動している百鬼丸のこの話が、余計にそういうことを象徴していると感じる。
肉体と魂の狭間にいる、「生」をあらためて問いかける、この話(この場にあってはこの舞台)をあらためて、深く観じてしまうのだ。


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2009/07/21

いれものと、その中にはいるもののこと1

ウルトラミラクルラブストーリー の感想

6月某日、待ちに待った映画「ウルトラミラクルラブストーリー」を観る。
もちろん松山ケンイチさんが目当てであったのだが、作品自体がとても印象深いものであり、このような作品に出ている松山さんがまた好きになる。

これは、タイトルのように「ラブストーリー」ではあるのだが、その「ラブ」とは恋愛のみならず。
人間界、いや自然界にあふれる「ラブ」の話で
「いれものと、その中に入るもの」=「肉体と、魂」の話なのだった。

魂、というのがいささかこの映画に不向きだとしたら、「エネルギー」とでも言い換えようか。
どちらにしても、ここ数年来私にとってとても重要課題であったこの命題が、描かれている(と私は感じた)という意味で、とても印象深いものなのであった。

松山ケンイチさん扮する「陽人」は、とても可愛い。生まれつきの障害を持っていてそれゆえの言動が少々迷惑ではあるが、それもひとつの個性、そういう共通認識の中で普通に、田舎の人々のなかで農業をやって、生きている。なんていうか、「生まれたまんま」な子供みたいな印象である。
それが、町から来た「町子先生」(←保育園の先生。麻生久美子さん扮する)にひとめぼれする。
そこから、陽人のはかりしれないエネルギーがミラクルに展開する。

生まれたまんまなひとが、恋をして、夢中になって、突っ走る。
相手にぶつかって、初めて相手のためになることを考える。
でも、エネルギーは止まらない!

それは、「常識」を打ち破り、相手と自分との境を乗り越えた。
「肉体」という境さえも。
境のないエネルギーは、生き続けるのだ。
相手と時には交わって、そして時には違う存在であることをことさらに印象づけて。

肉体という「いれもの」に入っている私たちなので、無意識にその「境界」を感じながら生きているわけなのだが、ここではその「肉体=境界」を超えて、とめどなく拡がっていく、あるいはつながっていく、∞な広がりを感じさせてくれて、本来ある本質的なものが見え隠れしていて、自分の「センター=核?」の部分をいたく刺激された。

コトバでは表現できない、なにものかがこの映画にはある。
なんだかよくわからないけど、本質(=ラブ、?)に語りかけるなにかが。

エネルギーの持つ無限(夢幻?)のチカラを感じざるをえない、そして同じように肉体という境界を持ったものの存在のありがたさを、
私はこの映像を観ながら、いっぱいに観じていた。

観終わってもなんだかよくわからずに(コトバで表現できないと、ちゃんと受け止められていないんじゃないかという、今の教育のもたらしたなんとなく厄介な不安感があって)
朝一番で観たのに、同じ日の夜、もう一度観てしまった。
結果、コトバじゃなくても、感覚でも、ちゃんと受け止めていられる(=自分のエネルギーで、受け止める)ことを、再確認したのだった。

もともとこの映画は、全編青森弁。
じつをいうと、ほとんどなにを言ってるのか正確にはわからなかった。
音楽みたいな感じ。
でも、エネルギーはちゃんと伝わってくるのだ。
そう思うと、いちばん大切なことは、コトバでなくても伝わるのかもしれない。そう感じる。


…きっとこれは、読んでもよくわからない感想でしょう。ゴメンナサイ。
でも、興味をもたれた方はぜひぜひ映画館でみてください。

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2009/07/07

歌舞伎座昼の部

来れるかどうか直前まで微妙だったけど、思い切って来てみました。
良かったですよ!

でもでも、猿弥さんが急病のため代役でした!
どうなさったんでしょう、楽しみにしていたのに…。軽いものなら良いのですが。
早く良くなられて復帰できますように。

感想はまた夜に。

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2009/07/06

ご・ぶ・さ・た

1カ月放置のあとは2カ月と、記録大更新してしまいました。
もうここでは書かない?かと自分でも思いましたが…coldsweats01久々の更新です。

とにかく生活が落ち着かず。仕事も忙しいのですが、いろいろと…ね(苦笑)
なのでなかなか、PCには向かっても、ブログのページには辿りつけませんでした。
でもそんなことを言ってたら、日々雑々なんだし。いつまでたっても。
と思い、ペースを改めようかと思います。

観劇には、細々ながらも行っております。
でも楽しみにしてた、5月の海老ちゃんの「暫」が観れなんだweep初「暫」の予定だったのに。
6月は歌舞伎座は昼の部だけ観ました!仁左様を堪能。ほれぼれでございました。
でも亀ちゃんの久々の歌舞伎の舞台「十二夜」は2度観ちゃった!一回は3階で、もう一回は1階3列目で。
歌舞伎の亀ちゃんはやっぱり素敵。舞台の市川亀治郎最高!です。

今月は、明日歌舞伎座に参ります。昼の部。
実は今月も、うかうかしてたらチケット取りそびれちゃって、やっとの思いで昼の部ゲットしました。
人気あるのね、本当に。
夜の部は取れてませーんsweat01
出たとこ勝負!でいきますか(笑)


ということで。
長らくの停滞のため、すっかり「ひっそりブログ」になりつつありますのでcoldsweats01細々と、日々の雑感&映画演劇の感想などなど…これからも書いていこうかなと思います。


ただいま父が入院中。(病状は安定してますのでご心配のないよう)これから病院に行ってきまーすrun
ではではまた。

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    ブラフマンという不思議な生き物に関わった私の、ゆるやかな変化の物語。
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  • 駒形克己: 「空が青いと海も青い」
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