なんとなく

2010/07/07

ひとりごと。

七夕の日は雨が多いのでしょうか。

厚い雲に覆われてこちらからは見えなくとも、
宇宙では雨降りの日はないのでしょう。
いつもいつも、いつもどおりなのでしょう。

静かに、自然に、普通に心地よく、とどこおりなく粛々と、
なにもかもが進んでいるのでしょう。
誕生や、死でさえも。

暑いとか、雨だとか、
滞っているとかいないとか、
感じられるのは地球だから。
肉体があるから。

なにごとも淀みのないあるがままの宇宙のなかで
そういうことを学べる今日も、ありがたいことです。

毎日、感謝、でございます。

ありがとうございます。

2010/01/17

もう15年

昨夜、淡路大地震のドラマ(半分はドキュメンタリー)を見ました。

もう15年も経ったのか、と思います。
ずっと関東に住んでいる私にとっては、遠く離れたところです。
あの日は休日でしたので、朝寝坊をしていて、でも一度は普通の時間に目を覚ましてなんとなくテレビをつけて、淡路のことがニュースになっていたにもかかわらず、最初は「あぁまた地震があったのか」と、事態を把握せずに二度寝してしまいました。
再び起きたときに、たいへんなことになっているのだとようやくわかり、家人と急にあたふたしたことを、ようく覚えています。
あわてて関西に住んでいる親戚や友人に電話をしたけれども、全然つながらなくて、なにもすることができなくて、ただただ、じりじりしていました。

そんな時に、そのただなかにいて、あんなふうに新聞を出そうとしていたひとたちがいたことを、初めて知りました。

なにもできない、情報もない。
それがどんなにか不安を募らせる状況なのか。
そんななかで、なんとかして情報を届けようと、奮闘したひとたち。

考えてみれば、みんながつらかったはずです。
自分も被災者なのに、どうにかして自分の役割を果たそうとしたひとが、あのときどれくらいいたんだろう。
新聞社だけではなかったはずです。
やろうとしてもやろうとしても、様々な障壁に、阻まれる。
やるせない思いでいっぱいだっただろうと思います。

でも、頑張って、復興しようとした。生きていこうとした。
自分の、役割を、果たそうとした。
…胸をうたれました。

みんなが、「神戸、頑張れ!」と祈っていました。
当時オリックスにいたイチロー選手が、ユニホームの袖に
「頑張れ、神戸」というメッセージを入れて試合をしていた姿も
よく覚えています。

東京にも、いつ大型地震がきてもおかしくないといわれています。
そうなったときに、私は、なにができるだろう。
(この前の爆風でも動揺しちゃう私ですからねcoldsweats02
生きていこうとする力を、そして自分の役割への思いを、強く持っていたいなあと、
いやそれでもめげちゃうでしょうけど、
なんとか大丈夫な自分でありたいと願うのであります。

2009/09/12

はじめの一歩

先日、某モデルルームのスタイリングをしたのですが…。

終了したあと、クライアントさんチェックのときの反応が、どうも渋かった…gawk
で、ずっと気にしていたのですが、担当営業からようやく、いちおうの理由を聞くことができまして。
インテリアのプランが、理解できなかったらしい…。

この仕事では、私はインテリアスタイリングといって、小物のスタイリング(アートとかテーブルセッティングなどのディスプレイ)のみを担当しました。
家具や照明など、いわゆるインテリアのプランは、他のデザイナーがやっています。
そのプランにおいてのシーン分けに、違和感があって、どうしても拭いきれなかったようで。

それは、プレゼンの際に伝わっていれば、問題ない(あるいは修正ができた)内容のものなのですが、今回の流れではいろいろ問題がありました。
まず、時間がなくて、プレゼンした相手が限られていたこと。
大きなプレゼンの際にデザイナーが海外出張でいなかったこと。
物件概要に関する掘り下げが、不足していたこと。
などなど。
これは、改善すべき反省点です。

私の仕事も、時間も予算もなくて、たいへんでした。
そんな中、心を砕いて、そしてさまざまな方たちの理解や協力を得て、仕事をしたつもりだったので、あの渋い反応にはけっこうショックを受けましたが…。


実はこのたびの仕事では、私のスタイリングの視点は、以前とは異なっていました。
以前は、「演出すること」「空間をドラマチックに魅せること」に重点を置いていましたが、いまは、その土地にとって、空間にとって、なにがいちばん「あるべき姿」として存在できるか、ということを大切にするようになりました。
これは、一般的にモデルルームに求められる「華やかさ」「人目を惹く」「印象を強める」などという、広告的効果とは少々異なる場合が多いのです。
逆にいえば、インパクトの強いものは、あまり、その場所本来の姿とは、異なることが多い。
ほんとうは、「自然に、本来あるがままの姿でいられること」が、望ましいのです。(と私は思う)

そこが、私にとって、チャレンジでした。

多くのひとが、モデルルームには「インパクト」「華やかさ」「印象深さ」もっとひらたくいえば「高級そうな感じ」「物件を、よりよく見せる雰囲気」と望んでいます。
仕事でやらせていただく以上、クライアントさんのそういった要望を受け取ることも大切です。
が、その中で、もっと本質的なことを、どれだけできるか、というチャレンジでした。

今回、そのチャレンジの一歩は、踏み出すことができましたが、一般的な評価とは完全一致、とまではいかなかったようで。
これは、さらなるチャレンジを提案してくれました。
自らの新しい方向性に、ちょっと自信を失いかけてましたが、いつもいてくださる師匠の、「大事な一歩をふみだしたのだから、それを大切に」という言葉で、もりもり回復しました!
反面、クライアントの反応は、小物のせいじゃなかったんだー(ホッ)という下世話な感情もあって、いかんなーと思ったり。

「最初の一歩」は、たいへんです。
理解してくれる人も少ないし、どのように伝えていったらいいか、その経験もスキルもこちらにはまだありません。
いままで積んできた経験が、ガラガラと崩れていってしまいそうな不安も、あります。
でも、くじけないように、やり続けたい!と、今回の件で思いました。
「だいじな、一歩」となりました。

2009/09/03

いれものと、その中にはいるもののこと3

いまさらですが、5月の文楽公演についてちょこっと。

5月の文楽公演は、第一部を鑑賞。
このときで文楽はまだ3回目、初心者中の初心者もいいところだけれど、このころ竹本住大夫の「文楽のこころを知る」という本を読んでいたこともあって、新鮮な興味が最大級にもりあがっておりました。
一部が「寿式三番叟」「伊勢音頭恋寝刃」「日高川入相花王」の3本、二部が「ひらかな盛衰記」の通し。

いうまでもなく文楽は、人形を通して大夫が語るものなので、人形をつかうひと、義太夫を語るひと、それぞれがひとつになって人形にいのちを吹き込んでいきます。
詳細は異なりますが、この演目のいずれも、私は歌舞伎でも観ています。生身の役者さんと人形の、そのあたりの表現の違いはたいへんに興味深いものがあります。

いつでしたか、文楽の人形を準備する人形方の話を、テレビで見たことがあります。
頭を選び、衣装を選んでかさねていく。手をつけたり、男役なら足をつけたりする。髪型や櫛などの飾りも選んでいく。
役によって基本はもちろん、決まっているのですが、そのときどきでの工夫や思い入れがあるのです。
そして、その過程で人形がだんだんと生きてくる、と話されていました。
そして大夫の話によると、舞台上で人形の動きはあまり見ていない。ほとんど「気」で動くのだそうで、人形方と大夫との阿吽の呼吸、空気感がつくりあげていくのだそうです。

それは私には不思議なことでした。
人形をつくっていく過程でだんだんといのちが容れられていくのはわかる。
でも、舞台で確認しあわなくて、それは宿るものなのでしょうか。
普段の稽古がものをいう、といわれる古典芸能の特性なのか、それとも、いのちというものは、意識の上のことではその存在を際立たせることができないのでしょうか。
深い深い、無意識に近いところでもって、はじめてその存在を、表現できるものなのでしょうか。

でも観客として観ていると、舞台上の人形はたしかに、いのちがいれられ、気が高ぶったときは頬が赤くなっているようにも感じられるし、殺気立っているときは青白く見える。
人形方、そして大夫の、すべてのエネルギーは、すべて人形から発せられているようです。
本来は、その人が発しているエネルギーのはずなのに。

考えていくうちに、ひとは自らの持っているエネルギーを、他所にある「器」に注ぎ込むことができるのだろうかと、よくよく不思議になりました。
そうすると、「器」はさまざまな形態が考えられますし、ある程度(というか、かなりの程度?)意識(いや無意識の境地?)すればその器の間を行き来できるのだろうか。

…これは、芸能だけれども、「注ぎ込む」ということを考えていたら、どんどん不思議が増してしまいました。
ひとの持つエネルギー(魂)のチカラというものは、はかりしれません。


これって、私にとって根本的な事柄で、考えるよりも観じる事柄なのかもしれません。
この次は、文楽そのものにつて感じてみようかと思いますが。笑。


2009/07/23

太陽の死と再生

7月22日は、46年ぶりに日本で見られる皆既日蝕だった。
午前中、テレビ各局ではこの一大天体ショーを総力をあげて放送していて、そんなつもりなかったのに、私も一度見はじめたらついつい見いってしまったcoldsweats01
…で、とても、楽しかった。

太陽が月に隠れて、また出てくるという、その数分間で、宇宙を感じることができたのだ。(テレビでだけど)
一部分だけ月に隠れている地域ができるのだから、その遠い周辺には太陽の光があたっているわけで、太平洋上で観察していた船上からは、遠くの海が神秘的な光を放って夕陽の海のように輝いているのが見えていた。
頭の上の空は真っ暗だというのに。
不思議な光景だった。

自然の動きを敏感に感じ取る動物たちもその瞬間、鳴くのをやめたり、あるいは鳴き出したり、動き回ったり静かになったりして、いつもの昼間の行動とは違う動きをしていたらしい。
木々の葉っぱのざわめきも、葉のうえにたたえる光も水も、違って見えたらしい。

太陽の光というのは、そんなにも私たちに影響を与えてくれている。

ある番組では、「昔のひとは日蝕をこう考えていた」という神話などを集めて話題にしていた。
日本ではもちろん「天岩戸伝説」である。
アマテラスオオミカミが、スサノヲの悪事を憂えて岩戸に入ってしまい、世の中真っ暗になってしまった、というお話だ。
これが「日蝕」をあらわすのか、はたまた「冬至」をあらわすのか、など諸説あるようだけれど、やっぱり「太陽が衰退すると困るから復活を願って、歌ったり踊ったりしてしまう」というのが単純で素直な、生活者の感覚だ。

今日の日蝕でも、たくさんのひとが、太陽の恵みをあらためて感じたと感想を述べていた。
今の私たちの生活では、夜でも電気がこうこうと点いていて、真っ暗な道なんてほとんど歩いたことないし、夜でも特に恐ろしくないし、太陽の動きによって生活パターンが変化するなんてことはめったにない。
けれども、それは、当り前のように太陽の恵みを受け取りすぎているってことで、ちょっと感謝が足りなかったなあ、と、今日のテレビを見ていて、あらためて思った。

太陽が衰退したり、復活したるするさまを、もっと感じ取って素直に生活したいし、たくさん感謝したいものである。

次回の日蝕は25年後だそうで。そのときは私は元気に空を見れているのかなあ。

続きを読む "太陽の死と再生" »

2009/07/22

いれものと、その中にはいるもののこと2

観れなかった扉座公演 「新浄瑠璃 百鬼丸」

今月上旬に、紀伊国屋サザンシアターでやっていた、扉座公演。
この演目は再演である。
初演をみたとき、下敷きとなっている手塚治虫さんの「どろろ」のこととか、その演出の組み立ての面白さとか、また大好きな浄瑠璃仕立てであることとか、さまざまな要素が折り重なって、私の扉座観劇史上(こういうとすごいけど…設立のころからけっこう観ているのよ)3本の指に入るくらい、好きな作品となった。
なによりも、(手塚ワールドではこのテーマはかなり語られているけど)「肉体と魂」の表現に、心打たれたのだった。

今回、非常に楽しみにしていたが、わけあって観れなかった。
横内さんのことだから、さらに研ぎ澄まされた表現になっていたのではと、楽しみにしていたのだが、とても残念だった。
なので、今回の公演に思いを馳せつつ、前回(といっても5年くらい前?)の印象から、私の感じた「いれものと、その中にはいるもの」について少し語ろうかと思う。


ご存じ「どろろ」は、父親が天下を取りたい野望と引き換えに、魔物と取引をしたために、体の48の部分を失ったままで生まれてくる「百鬼丸」、そしてひょんなことからそれと出会った「どろろ」が、百鬼丸の失われたからだを求めて旅をする話である。
48の魔物と対決し、それを克服したらからだを取り戻せる、そのための旅である。

マンガの原作ではどろろは可愛らしい子供で、百鬼丸は仮の体のハンサムボーイだったが、舞台ではどろろはいい大人なコソ泥(なんたって演ってるのが山中崇史さんだもんね)、百鬼丸はのっぺらぼうの人形だ。そして影分身のように、「声=魂」役の高橋麻理、「影=肉体」役の累央が登場する。
これが、うまい、と当時の私は唸った。

百鬼丸は最初は肉体がないのだ。
目はガラス玉だし、手足も自由に動かない、口もない、肉の塊みたいな存在なのだ。
でも、「魂」は宿っている。
そして、その「魂」はとても清らかだ。
自分の体を売った父を憎んでもなく、母をひたすら慕い、母に自分の姿を認めてもらうためだけに、肉体を得るべく戦い抜く。
この「魂」に、高橋麻理の澄んだ声がとても似合っていた。

いっぽう、肉体のほうは、ひとつひとつ魔物の壁をクリアしていくごとに、手足を得、目を得て、だんだんと「肉」を持った体でさまざまな事象を感じることに喜びを見出してくる。
本物の手で握った刀の勢い、本物の声で叫んだときの気持ち、本物の目でみた優しい女のひと。
喜びと同時に、肉体をもった故の痛みもだんだんと感じるようになる。

舞台の終盤、ほとんど完全なる肉体を手にした百鬼丸だが、その肉体は喜びよりも、父への憎しみ、母への恨みでいっぱいになってしまう。
肉体を得たからこそ観じてしまった、肉の痛み、現世での生の痛みがそうさせたのだろうか。
いまだきよらかな魂は、必死でそれを止めようとする。が、止められないのだ。

そのころから私は、ずっと「魂」と「肉体」と、その「学び」について考えていたので、これは想像どおりといえどもものすごくショックだった。
肉体は現実のもの、魂は理想郷のもの、と、目の前につきつけられたような気がしたのだ。
魂のままなら、本質的に、そして宇宙の流れのままに、生きられるのか。
肉体をもったなら、その「痛み」でもって、恨みや憎しみといった現実に、のみこまれてしまいそうになるのか。
いやそうでなくするために、人間は「肉体」に「魂」を宿らせて、学びの生涯を送るのではないだろうか。

いろいろなことがぐるぐると廻りめぐって、結局答えがみつからなかった。
今回、新たに観ることで、またその答えに向かえるきっかけになるのかなと思ったが、思いがけずその機会は失われた。
これは、そんなきかっけを与えなくても考え続けることなのだよ、といわれたような気もした。

48という数は、いろいろなところでよく目にする数字だが、人が肉体を脱いで49日目に仏になると言われていることを考えると、その間の48という数を得るために行動している百鬼丸のこの話が、余計にそういうことを象徴していると感じる。
肉体と魂の狭間にいる、「生」をあらためて問いかける、この話(この場にあってはこの舞台)をあらためて、深く観じてしまうのだ。


続きを読む "いれものと、その中にはいるもののこと2" »

2009/07/21

いれものと、その中にはいるもののこと1

ウルトラミラクルラブストーリー の感想

6月某日、待ちに待った映画「ウルトラミラクルラブストーリー」を観る。
もちろん松山ケンイチさんが目当てであったのだが、作品自体がとても印象深いものであり、このような作品に出ている松山さんがまた好きになる。

これは、タイトルのように「ラブストーリー」ではあるのだが、その「ラブ」とは恋愛のみならず。
人間界、いや自然界にあふれる「ラブ」の話で
「いれものと、その中に入るもの」=「肉体と、魂」の話なのだった。

魂、というのがいささかこの映画に不向きだとしたら、「エネルギー」とでも言い換えようか。
どちらにしても、ここ数年来私にとってとても重要課題であったこの命題が、描かれている(と私は感じた)という意味で、とても印象深いものなのであった。

松山ケンイチさん扮する「陽人」は、とても可愛い。生まれつきの障害を持っていてそれゆえの言動が少々迷惑ではあるが、それもひとつの個性、そういう共通認識の中で普通に、田舎の人々のなかで農業をやって、生きている。なんていうか、「生まれたまんま」な子供みたいな印象である。
それが、町から来た「町子先生」(←保育園の先生。麻生久美子さん扮する)にひとめぼれする。
そこから、陽人のはかりしれないエネルギーがミラクルに展開する。

生まれたまんまなひとが、恋をして、夢中になって、突っ走る。
相手にぶつかって、初めて相手のためになることを考える。
でも、エネルギーは止まらない!

それは、「常識」を打ち破り、相手と自分との境を乗り越えた。
「肉体」という境さえも。
境のないエネルギーは、生き続けるのだ。
相手と時には交わって、そして時には違う存在であることをことさらに印象づけて。

肉体という「いれもの」に入っている私たちなので、無意識にその「境界」を感じながら生きているわけなのだが、ここではその「肉体=境界」を超えて、とめどなく拡がっていく、あるいはつながっていく、∞な広がりを感じさせてくれて、本来ある本質的なものが見え隠れしていて、自分の「センター=核?」の部分をいたく刺激された。

コトバでは表現できない、なにものかがこの映画にはある。
なんだかよくわからないけど、本質(=ラブ、?)に語りかけるなにかが。

エネルギーの持つ無限(夢幻?)のチカラを感じざるをえない、そして同じように肉体という境界を持ったものの存在のありがたさを、
私はこの映像を観ながら、いっぱいに観じていた。

観終わってもなんだかよくわからずに(コトバで表現できないと、ちゃんと受け止められていないんじゃないかという、今の教育のもたらしたなんとなく厄介な不安感があって)
朝一番で観たのに、同じ日の夜、もう一度観てしまった。
結果、コトバじゃなくても、感覚でも、ちゃんと受け止めていられる(=自分のエネルギーで、受け止める)ことを、再確認したのだった。

もともとこの映画は、全編青森弁。
じつをいうと、ほとんどなにを言ってるのか正確にはわからなかった。
音楽みたいな感じ。
でも、エネルギーはちゃんと伝わってくるのだ。
そう思うと、いちばん大切なことは、コトバでなくても伝わるのかもしれない。そう感じる。


…きっとこれは、読んでもよくわからない感想でしょう。ゴメンナサイ。
でも、興味をもたれた方はぜひぜひ映画館でみてください。

続きを読む "いれものと、その中にはいるもののこと1" »

2009/02/08

見上げてごらん

ここ数日、息をつく間もなく、電話する時間もとれないくらい、打ち合わせに時間を取られていた。
ひとつ終わるともう、次のがすでに始まっているような状態。
そのための準備もし、後処理もし…と、追われる追われるcoldsweats01
で、やっと息つくとすでに12時をまわっている。
これじゃ、誰にも電話もできない〜bearing

なんて感じだったので、ちょい睡眠不足なのだが、そういうときって、歩いてるときつい、下を向いちゃうのよね。
あっと気付いてまっすぐ前向くんだけど、まだ下を向いちゃう。
だからイキオイつけようと思って、上をみた!
冴え冴えとした夜空が、キレイだった!

疲れてることも、時間に追われていることも、ぜーんぶ空に吸い込まれていったよ。
heart

2009/02/07

ぎりぎり

ここ数日追われていて、なにごともぎりぎり。
ぎりぎりな中で、どうしてもやりきらなければならないことは、大抵は社会的なことで、
個人的なことは、あとまわしになる。

それって、アブナイんじゃないの。
‥と、思いなおす。

たいせつなことは、
いま本当にしたほうが良いことは…、
と語りかけ、
そして行動をおこしなおす。

そこんとこ、大事だよ、って
誰かさんにいわれてるような気がした。

2009/02/04

みんな一生懸命

今日電車に乗ったときのこと。
小学校一年生くらいの男の子ふたりが、座っていました。
ひとりはなんだかふてくされた様子でひどく元気がない。隣の子は心配そうに、体をほとんど彼のほうに向けていました。
おせっかいおばさんとしては、思わず「ぼく、具合でも悪いの?」と声をかけたくなるくらいな様子。
でも、しばらく話を聞いてみると…

「どれくらい行っちゃうの?」
「2年だよ」
「2年かあ…(ちょっとどんより。でもすぐになぐさめるように)でも2年なんて、すぐだよ!僕達だって、そのまんまだよ!」

どうやら、一人はお父さんのお仕事の都合で、海外に行くらしいのです。

「だって…2年なんて行ってたらさあ…君たちだって、変わるよ。遊びだって、変わっちゃうよ。
それに2年あっちにいたら、ぼく、まっくろだよ!」


どうやら転勤先は、暑い国らしい?

「まっくろかあ…(上手に反論できなかったらしくなんとなく納得…?)でもそしたらさ、君は、
オバマにだって、なれるよ!

それくらい黒くなるような国に行くのか!(笑)オバマは、そんな小さな子にとっても、英雄なのね!
するともうひとりの子、

「黒くなったからって、誰でもオバマになれるわけじゃないんだよ」

…シーン…。
言う言葉もなくなって、転校してしまうお友達をギュッと抱きしめる男の子!(かわいい〜!)


まだまだ年端のいかない彼等には、2年は長いよなあ。
重大事件だよなあ。
でも、そんなに落ち込んでる中、黒いからオバマになれるわけじゃないと、冷静に判断できる彼!
でもって、必死で、なんとかして、友達の気持ちを盛り上げようとしている彼!

みんな、毎日、一生懸命悩みと向き合ってるんだなあ。
どうか彼らが2年を乗り越えられますように!帰ってきてからも、仲良く遊べますように!
…と、会話をなにげに聞いていたおばさんは、つい願ってしまうのでした。

より以前の記事一覧

2013年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

お気に入り☆BOOKS

  • 小川洋子: 「ブラフマンの埋葬」
    ブラフマンという不思議な生き物に関わった私の、ゆるやかな変化の物語。
  • 吉本ばなな: 「デッドエンドの思い出」
    シアワセとフシアワセの境目ってなんだろうかと、そのボーダーラインの不確かさはむしろシアワセな贈り物なんじゃないかと思わせてくれた作品。
  • 駒形克己: 「空が青いと海も青い」
    ぜんぶ広げると1枚の紙になってしまう、不思議な絵本。広げたり畳んだりしてみるとまた、構成が変化しておもしろい。書いてあることは、一言なんだけどけっこう科学的。
  • イワサキユキオ: 「Say Hello! あのこによろしく」
    どのページを開いても、満面の笑顔になっちゃう。笑顔なのに、ウルウルしちゃう。子犬たちの成長が、愛情たっぷりの写真で綴られています。
  • 川上弘美: 「椰子・椰子」
    ありえなさそうなんだけど、ありえちゃうような不思議な日々を淡々と過ごす「私」のへんてこりんなお話。山口マオさんのイラストも可愛い。
  • 西岡常一・小川三夫・塩野米松: 「木のいのち 木のこころ 天・地・人」
    寺社建築に携わる二人の宮大工の棟梁のお話。宮大工という未知の世界の話はとても興味深く、また「真」をみるということは万事共通なんだと感じ入りました。

最近のトラックバック

無料ブログはココログ