なんとなく

2009/09/12

はじめの一歩

先日、某モデルルームのスタイリングをしたのですが…。

終了したあと、クライアントさんチェックのときの反応が、どうも渋かった…gawk
で、ずっと気にしていたのですが、担当営業からようやく、いちおうの理由を聞くことができまして。
インテリアのプランが、理解できなかったらしい…。

この仕事では、私はインテリアスタイリングといって、小物のスタイリング(アートとかテーブルセッティングなどのディスプレイ)のみを担当しました。
家具や照明など、いわゆるインテリアのプランは、他のデザイナーがやっています。
そのプランにおいてのシーン分けに、違和感があって、どうしても拭いきれなかったようで。

それは、プレゼンの際に伝わっていれば、問題ない(あるいは修正ができた)内容のものなのですが、今回の流れではいろいろ問題がありました。
まず、時間がなくて、プレゼンした相手が限られていたこと。
大きなプレゼンの際にデザイナーが海外出張でいなかったこと。
物件概要に関する掘り下げが、不足していたこと。
などなど。
これは、改善すべき反省点です。

私の仕事も、時間も予算もなくて、たいへんでした。
そんな中、心を砕いて、そしてさまざまな方たちの理解や協力を得て、仕事をしたつもりだったので、あの渋い反応にはけっこうショックを受けましたが…。


実はこのたびの仕事では、私のスタイリングの視点は、以前とは異なっていました。
以前は、「演出すること」「空間をドラマチックに魅せること」に重点を置いていましたが、いまは、その土地にとって、空間にとって、なにがいちばん「あるべき姿」として存在できるか、ということを大切にするようになりました。
これは、一般的にモデルルームに求められる「華やかさ」「人目を惹く」「印象を強める」などという、広告的効果とは少々異なる場合が多いのです。
逆にいえば、インパクトの強いものは、あまり、その場所本来の姿とは、異なることが多い。
ほんとうは、「自然に、本来あるがままの姿でいられること」が、望ましいのです。(と私は思う)

そこが、私にとって、チャレンジでした。

多くのひとが、モデルルームには「インパクト」「華やかさ」「印象深さ」もっとひらたくいえば「高級そうな感じ」「物件を、よりよく見せる雰囲気」と望んでいます。
仕事でやらせていただく以上、クライアントさんのそういった要望を受け取ることも大切です。
が、その中で、もっと本質的なことを、どれだけできるか、というチャレンジでした。

今回、そのチャレンジの一歩は、踏み出すことができましたが、一般的な評価とは完全一致、とまではいかなかったようで。
これは、さらなるチャレンジを提案してくれました。
自らの新しい方向性に、ちょっと自信を失いかけてましたが、いつもいてくださる師匠の、「大事な一歩をふみだしたのだから、それを大切に」という言葉で、もりもり回復しました!
反面、クライアントの反応は、小物のせいじゃなかったんだー(ホッ)という下世話な感情もあって、いかんなーと思ったり。

「最初の一歩」は、たいへんです。
理解してくれる人も少ないし、どのように伝えていったらいいか、その経験もスキルもこちらにはまだありません。
いままで積んできた経験が、ガラガラと崩れていってしまいそうな不安も、あります。
でも、くじけないように、やり続けたい!と、今回の件で思いました。
「だいじな、一歩」となりました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/09/03

いれものと、その中にはいるもののこと3

いまさらですが、5月の文楽公演についてちょこっと。

5月の文楽公演は、第一部を鑑賞。
このときで文楽はまだ3回目、初心者中の初心者もいいところだけれど、このころ竹本住大夫の「文楽のこころを知る」という本を読んでいたこともあって、新鮮な興味が最大級にもりあがっておりました。
一部が「寿式三番叟」「伊勢音頭恋寝刃」「日高川入相花王」の3本、二部が「ひらかな盛衰記」の通し。

いうまでもなく文楽は、人形を通して大夫が語るものなので、人形をつかうひと、義太夫を語るひと、それぞれがひとつになって人形にいのちを吹き込んでいきます。
詳細は異なりますが、この演目のいずれも、私は歌舞伎でも観ています。生身の役者さんと人形の、そのあたりの表現の違いはたいへんに興味深いものがあります。

いつでしたか、文楽の人形を準備する人形方の話を、テレビで見たことがあります。
頭を選び、衣装を選んでかさねていく。手をつけたり、男役なら足をつけたりする。髪型や櫛などの飾りも選んでいく。
役によって基本はもちろん、決まっているのですが、そのときどきでの工夫や思い入れがあるのです。
そして、その過程で人形がだんだんと生きてくる、と話されていました。
そして大夫の話によると、舞台上で人形の動きはあまり見ていない。ほとんど「気」で動くのだそうで、人形方と大夫との阿吽の呼吸、空気感がつくりあげていくのだそうです。

それは私には不思議なことでした。
人形をつくっていく過程でだんだんといのちが容れられていくのはわかる。
でも、舞台で確認しあわなくて、それは宿るものなのでしょうか。
普段の稽古がものをいう、といわれる古典芸能の特性なのか、それとも、いのちというものは、意識の上のことではその存在を際立たせることができないのでしょうか。
深い深い、無意識に近いところでもって、はじめてその存在を、表現できるものなのでしょうか。

でも観客として観ていると、舞台上の人形はたしかに、いのちがいれられ、気が高ぶったときは頬が赤くなっているようにも感じられるし、殺気立っているときは青白く見える。
人形方、そして大夫の、すべてのエネルギーは、すべて人形から発せられているようです。
本来は、その人が発しているエネルギーのはずなのに。

考えていくうちに、ひとは自らの持っているエネルギーを、他所にある「器」に注ぎ込むことができるのだろうかと、よくよく不思議になりました。
そうすると、「器」はさまざまな形態が考えられますし、ある程度(というか、かなりの程度?)意識(いや無意識の境地?)すればその器の間を行き来できるのだろうか。

…これは、芸能だけれども、「注ぎ込む」ということを考えていたら、どんどん不思議が増してしまいました。
ひとの持つエネルギー(魂)のチカラというものは、はかりしれません。


これって、私にとって根本的な事柄で、考えるよりも観じる事柄なのかもしれません。
この次は、文楽そのものにつて感じてみようかと思いますが。笑。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/07/23

太陽の死と再生

7月22日は、46年ぶりに日本で見られる皆既日蝕だった。
午前中、テレビ各局ではこの一大天体ショーを総力をあげて放送していて、そんなつもりなかったのに、私も一度見はじめたらついつい見いってしまったcoldsweats01
…で、とても、楽しかった。

太陽が月に隠れて、また出てくるという、その数分間で、宇宙を感じることができたのだ。(テレビでだけど)
一部分だけ月に隠れている地域ができるのだから、その遠い周辺には太陽の光があたっているわけで、太平洋上で観察していた船上からは、遠くの海が神秘的な光を放って夕陽の海のように輝いているのが見えていた。
頭の上の空は真っ暗だというのに。
不思議な光景だった。

自然の動きを敏感に感じ取る動物たちもその瞬間、鳴くのをやめたり、あるいは鳴き出したり、動き回ったり静かになったりして、いつもの昼間の行動とは違う動きをしていたらしい。
木々の葉っぱのざわめきも、葉のうえにたたえる光も水も、違って見えたらしい。

太陽の光というのは、そんなにも私たちに影響を与えてくれている。

ある番組では、「昔のひとは日蝕をこう考えていた」という神話などを集めて話題にしていた。
日本ではもちろん「天岩戸伝説」である。
アマテラスオオミカミが、スサノヲの悪事を憂えて岩戸に入ってしまい、世の中真っ暗になってしまった、というお話だ。
これが「日蝕」をあらわすのか、はたまた「冬至」をあらわすのか、など諸説あるようだけれど、やっぱり「太陽が衰退すると困るから復活を願って、歌ったり踊ったりしてしまう」というのが単純で素直な、生活者の感覚だ。

今日の日蝕でも、たくさんのひとが、太陽の恵みをあらためて感じたと感想を述べていた。
今の私たちの生活では、夜でも電気がこうこうと点いていて、真っ暗な道なんてほとんど歩いたことないし、夜でも特に恐ろしくないし、太陽の動きによって生活パターンが変化するなんてことはめったにない。
けれども、それは、当り前のように太陽の恵みを受け取りすぎているってことで、ちょっと感謝が足りなかったなあ、と、今日のテレビを見ていて、あらためて思った。

太陽が衰退したり、復活したるするさまを、もっと感じ取って素直に生活したいし、たくさん感謝したいものである。

次回の日蝕は25年後だそうで。そのときは私は元気に空を見れているのかなあ。

続きを読む "太陽の死と再生"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/07/22

いれものと、その中にはいるもののこと2

観れなかった扉座公演 「新浄瑠璃 百鬼丸」

今月上旬に、紀伊国屋サザンシアターでやっていた、扉座公演。
この演目は再演である。
初演をみたとき、下敷きとなっている手塚治虫さんの「どろろ」のこととか、その演出の組み立ての面白さとか、また大好きな浄瑠璃仕立てであることとか、さまざまな要素が折り重なって、私の扉座観劇史上(こういうとすごいけど…設立のころからけっこう観ているのよ)3本の指に入るくらい、好きな作品となった。
なによりも、(手塚ワールドではこのテーマはかなり語られているけど)「肉体と魂」の表現に、心打たれたのだった。

今回、非常に楽しみにしていたが、わけあって観れなかった。
横内さんのことだから、さらに研ぎ澄まされた表現になっていたのではと、楽しみにしていたのだが、とても残念だった。
なので、今回の公演に思いを馳せつつ、前回(といっても5年くらい前?)の印象から、私の感じた「いれものと、その中にはいるもの」について少し語ろうかと思う。


ご存じ「どろろ」は、父親が天下を取りたい野望と引き換えに、魔物と取引をしたために、体の48の部分を失ったままで生まれてくる「百鬼丸」、そしてひょんなことからそれと出会った「どろろ」が、百鬼丸の失われたからだを求めて旅をする話である。
48の魔物と対決し、それを克服したらからだを取り戻せる、そのための旅である。

マンガの原作ではどろろは可愛らしい子供で、百鬼丸は仮の体のハンサムボーイだったが、舞台ではどろろはいい大人なコソ泥(なんたって演ってるのが山中崇史さんだもんね)、百鬼丸はのっぺらぼうの人形だ。そして影分身のように、「声=魂」役の高橋麻理、「影=肉体」役の累央が登場する。
これが、うまい、と当時の私は唸った。

百鬼丸は最初は肉体がないのだ。
目はガラス玉だし、手足も自由に動かない、口もない、肉の塊みたいな存在なのだ。
でも、「魂」は宿っている。
そして、その「魂」はとても清らかだ。
自分の体を売った父を憎んでもなく、母をひたすら慕い、母に自分の姿を認めてもらうためだけに、肉体を得るべく戦い抜く。
この「魂」に、高橋麻理の澄んだ声がとても似合っていた。

いっぽう、肉体のほうは、ひとつひとつ魔物の壁をクリアしていくごとに、手足を得、目を得て、だんだんと「肉」を持った体でさまざまな事象を感じることに喜びを見出してくる。
本物の手で握った刀の勢い、本物の声で叫んだときの気持ち、本物の目でみた優しい女のひと。
喜びと同時に、肉体をもった故の痛みもだんだんと感じるようになる。

舞台の終盤、ほとんど完全なる肉体を手にした百鬼丸だが、その肉体は喜びよりも、父への憎しみ、母への恨みでいっぱいになってしまう。
肉体を得たからこそ観じてしまった、肉の痛み、現世での生の痛みがそうさせたのだろうか。
いまだきよらかな魂は、必死でそれを止めようとする。が、止められないのだ。

そのころから私は、ずっと「魂」と「肉体」と、その「学び」について考えていたので、これは想像どおりといえどもものすごくショックだった。
肉体は現実のもの、魂は理想郷のもの、と、目の前につきつけられたような気がしたのだ。
魂のままなら、本質的に、そして宇宙の流れのままに、生きられるのか。
肉体をもったなら、その「痛み」でもって、恨みや憎しみといった現実に、のみこまれてしまいそうになるのか。
いやそうでなくするために、人間は「肉体」に「魂」を宿らせて、学びの生涯を送るのではないだろうか。

いろいろなことがぐるぐると廻りめぐって、結局答えがみつからなかった。
今回、新たに観ることで、またその答えに向かえるきっかけになるのかなと思ったが、思いがけずその機会は失われた。
これは、そんなきかっけを与えなくても考え続けることなのだよ、といわれたような気もした。

48という数は、いろいろなところでよく目にする数字だが、人が肉体を脱いで49日目に仏になると言われていることを考えると、その間の48という数を得るために行動している百鬼丸のこの話が、余計にそういうことを象徴していると感じる。
肉体と魂の狭間にいる、「生」をあらためて問いかける、この話(この場にあってはこの舞台)をあらためて、深く観じてしまうのだ。


続きを読む "いれものと、その中にはいるもののこと2"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/07/21

いれものと、その中にはいるもののこと1

ウルトラミラクルラブストーリー の感想

6月某日、待ちに待った映画「ウルトラミラクルラブストーリー」を観る。
もちろん松山ケンイチさんが目当てであったのだが、作品自体がとても印象深いものであり、このような作品に出ている松山さんがまた好きになる。

これは、タイトルのように「ラブストーリー」ではあるのだが、その「ラブ」とは恋愛のみならず。
人間界、いや自然界にあふれる「ラブ」の話で
「いれものと、その中に入るもの」=「肉体と、魂」の話なのだった。

魂、というのがいささかこの映画に不向きだとしたら、「エネルギー」とでも言い換えようか。
どちらにしても、ここ数年来私にとってとても重要課題であったこの命題が、描かれている(と私は感じた)という意味で、とても印象深いものなのであった。

松山ケンイチさん扮する「陽人」は、とても可愛い。生まれつきの障害を持っていてそれゆえの言動が少々迷惑ではあるが、それもひとつの個性、そういう共通認識の中で普通に、田舎の人々のなかで農業をやって、生きている。なんていうか、「生まれたまんま」な子供みたいな印象である。
それが、町から来た「町子先生」(←保育園の先生。麻生久美子さん扮する)にひとめぼれする。
そこから、陽人のはかりしれないエネルギーがミラクルに展開する。

生まれたまんまなひとが、恋をして、夢中になって、突っ走る。
相手にぶつかって、初めて相手のためになることを考える。
でも、エネルギーは止まらない!

それは、「常識」を打ち破り、相手と自分との境を乗り越えた。
「肉体」という境さえも。
境のないエネルギーは、生き続けるのだ。
相手と時には交わって、そして時には違う存在であることをことさらに印象づけて。

肉体という「いれもの」に入っている私たちなので、無意識にその「境界」を感じながら生きているわけなのだが、ここではその「肉体=境界」を超えて、とめどなく拡がっていく、あるいはつながっていく、∞な広がりを感じさせてくれて、本来ある本質的なものが見え隠れしていて、自分の「センター=核?」の部分をいたく刺激された。

コトバでは表現できない、なにものかがこの映画にはある。
なんだかよくわからないけど、本質(=ラブ、?)に語りかけるなにかが。

エネルギーの持つ無限(夢幻?)のチカラを感じざるをえない、そして同じように肉体という境界を持ったものの存在のありがたさを、
私はこの映像を観ながら、いっぱいに観じていた。

観終わってもなんだかよくわからずに(コトバで表現できないと、ちゃんと受け止められていないんじゃないかという、今の教育のもたらしたなんとなく厄介な不安感があって)
朝一番で観たのに、同じ日の夜、もう一度観てしまった。
結果、コトバじゃなくても、感覚でも、ちゃんと受け止めていられる(=自分のエネルギーで、受け止める)ことを、再確認したのだった。

もともとこの映画は、全編青森弁。
じつをいうと、ほとんどなにを言ってるのか正確にはわからなかった。
音楽みたいな感じ。
でも、エネルギーはちゃんと伝わってくるのだ。
そう思うと、いちばん大切なことは、コトバでなくても伝わるのかもしれない。そう感じる。


…きっとこれは、読んでもよくわからない感想でしょう。ゴメンナサイ。
でも、興味をもたれた方はぜひぜひ映画館でみてください。

続きを読む "いれものと、その中にはいるもののこと1"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009/02/08

見上げてごらん

ここ数日、息をつく間もなく、電話する時間もとれないくらい、打ち合わせに時間を取られていた。
ひとつ終わるともう、次のがすでに始まっているような状態。
そのための準備もし、後処理もし…と、追われる追われるcoldsweats01
で、やっと息つくとすでに12時をまわっている。
これじゃ、誰にも電話もできない〜bearing

なんて感じだったので、ちょい睡眠不足なのだが、そういうときって、歩いてるときつい、下を向いちゃうのよね。
あっと気付いてまっすぐ前向くんだけど、まだ下を向いちゃう。
だからイキオイつけようと思って、上をみた!
冴え冴えとした夜空が、キレイだった!

疲れてることも、時間に追われていることも、ぜーんぶ空に吸い込まれていったよ。
heart

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009/02/07

ぎりぎり

ここ数日追われていて、なにごともぎりぎり。
ぎりぎりな中で、どうしてもやりきらなければならないことは、大抵は社会的なことで、
個人的なことは、あとまわしになる。

それって、アブナイんじゃないの。
‥と、思いなおす。

たいせつなことは、
いま本当にしたほうが良いことは…、
と語りかけ、
そして行動をおこしなおす。

そこんとこ、大事だよ、って
誰かさんにいわれてるような気がした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/02/04

みんな一生懸命

今日電車に乗ったときのこと。
小学校一年生くらいの男の子ふたりが、座っていました。
ひとりはなんだかふてくされた様子でひどく元気がない。隣の子は心配そうに、体をほとんど彼のほうに向けていました。
おせっかいおばさんとしては、思わず「ぼく、具合でも悪いの?」と声をかけたくなるくらいな様子。
でも、しばらく話を聞いてみると…

「どれくらい行っちゃうの?」
「2年だよ」
「2年かあ…(ちょっとどんより。でもすぐになぐさめるように)でも2年なんて、すぐだよ!僕達だって、そのまんまだよ!」

どうやら、一人はお父さんのお仕事の都合で、海外に行くらしいのです。

「だって…2年なんて行ってたらさあ…君たちだって、変わるよ。遊びだって、変わっちゃうよ。
それに2年あっちにいたら、ぼく、まっくろだよ!」


どうやら転勤先は、暑い国らしい?

「まっくろかあ…(上手に反論できなかったらしくなんとなく納得…?)でもそしたらさ、君は、
オバマにだって、なれるよ!

それくらい黒くなるような国に行くのか!(笑)オバマは、そんな小さな子にとっても、英雄なのね!
するともうひとりの子、

「黒くなったからって、誰でもオバマになれるわけじゃないんだよ」

…シーン…。
言う言葉もなくなって、転校してしまうお友達をギュッと抱きしめる男の子!(かわいい〜!)


まだまだ年端のいかない彼等には、2年は長いよなあ。
重大事件だよなあ。
でも、そんなに落ち込んでる中、黒いからオバマになれるわけじゃないと、冷静に判断できる彼!
でもって、必死で、なんとかして、友達の気持ちを盛り上げようとしている彼!

みんな、毎日、一生懸命悩みと向き合ってるんだなあ。
どうか彼らが2年を乗り越えられますように!帰ってきてからも、仲良く遊べますように!
…と、会話をなにげに聞いていたおばさんは、つい願ってしまうのでした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/02/03

ナニソレ

一日のうちに、似たような感情を引き起こさせることが
次々と起こるもんだ。

という一日でした。

自分の発想じゃ思い付かないようなこと。
(それも、いいことじゃなくて、すごいひどいこと)

常識じゃ考えられないでしょってことを仕事でされたこと。
(プライベートならまだいいのよ)

何をどう話しても意思疎通ができなさそうだったこと。
(発想の根本が、違うとしか思えない…)

ナニソレ。

と思うのだが
ここで諦めたらいけない!
私も「ナニソレ」のひとつになってしまうぞよ。

「ナニソレの基」を、ようく見つめ直して、
ブレイクスルーしようじゃないの。
…ちょっと眠いけど(笑)(正直、今日起きた出来事たちで、くたくたなのさ)

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009/01/13

3歩すすんで2歩さがる

なにかを、突出して急激にクリアしてしまったあとって、ほかの部分でその進化についていってないことがあるんですよね。
でもしばらくは、その一部分の進化でカバーされちゃって、気付かないので、そのままでもいけるじゃん!て思うのですが…
やっぱりそうは問屋がおろさない(笑)
まだ進化してない、その段階に引き戻されて、そこをクリアするためのチャレンジがやってくる…。

ここ数日そんなことが起こり、本日やっとその本質的なことに気付きました。
「引き戻った」感は自分でもあったので、かなりがっかりしていたのですが、そうと気付けばまたそれも有り難いことなのですよね。

また新たに自分自身を見つめるという機会をいただいて、大変な思いながらも、感謝いたしております。
…うふふ。今日のはほんの「つぶやき」でございます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/12/24

おだやかに。

クリスマスイブを友人ご夫妻と。
我が家にいらしていただきましたの♪
とはいっても、飲んだり食べたりのパーティではなく、本質で語り合うという機会を設けました。
温かいお茶とシュトーレンと、野菜のスープと魚介のパスタと。
電気じゃなくてキャンドルで。
新しい年に向けて、うちのアートさんたちの、場所を変えさせていただいたり。
穏やかな、貴重な聖夜となりました。
ありがとうございます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/05/18

ぶーふーうーのうた

子供のころテレビでみてた人形劇で
ぶーふーうーという子豚の兄弟がいて
列になって♪ぶー、ふー、うー!とうたうのだ。
兄弟のまんなかの「ふー」は、くたびれやさんで
♪ぼくはくたびれた〜とうたうのだ。
♪ぼくははたらきたいんだけど、
♪すぐに、すぐに、くたびれちゃうんだよ〜
って。
…。
っけないっ!
「ふー」モードになってるうー!

というときは、一番下の「うー」のうた
元気にぴょんぴょん飛び跳ねてるみたいなうたをうたおう。
うーは元気でがんばりやさんなのだっ(^-^)v

これを読んで、ぶーふーうーのうたを歌えちゃってる方…同年代ですね…笑。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/05/01

空が高くなった。

五月ですよ。
今日は暑かった。
もう半そででいいかもね。
私は真夏でも長そでを着ますが。

五月は、花々の咲き乱れる、マリア様の月ですよ。
私はクリスチャンではありませんが、
昔通っていた学校がカトリックでしたので
五月になると、そういう明るい嬉しい風が吹くような
歌い出したくなるような、そんな気分でしたね。

五月はね。
空が高くなるような気がする。
秋の空の高いのとはちがう、
なんかもっと空の、上の、上のほうまで、いろんな色がつまってるの。
…そして「色」とは、「光」なの。

鯉のぼりを、見上げるからでしょうか。
明るい日差しを、足もとにさえ感じるようになるからでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/15

リンク・リンク・リンク

先日実家に行ったら、父が、腕が痛くてお箸も持てないという。
肘の内側が痛いというので見てみると、ちょっとだけ膨れている。
うーん、どうしたのかしらねえ、お箸も持てないなんて困るわねえ、といって
病院に行ってもらった。
そうこうしているうち、私も仕事の時間になってしまったので、心配ながらも出かけたが

仕事先でその日初めてお会いした、その仕事のお相手の方が
なんだか肩が痛くて上がらないの、と仰る。
あらあら父と同じだわ、と内心思いつつ、父の痛そうな顔を思い浮かべて
たいへんですね、とひと事でない気持ちで話していると
肩に石灰が溜まっている、と病院で言われたとか。
そんなんだ、と思いつつちょっと手があいたので実家に電話してみると
父の言うには「石灰がたまってるんだって」とな。

とっても痛そうなので、お気の毒だとは思いながらも
初めて会ったその方に「うちの父も…」とお話しし、
「同じ日に、同じ症状の人と会うなんてねえ」と、互いに笑ってしまった。
なんだかそんな御縁もあったのかもねえ、などと。

ちなみに同じくその日お会いしたもうひとりの方も、
私が社会人になって初めて入った会社の、すごーい山奥の研修所の近くに
たった一件、家を建てて住んでいらっしゃる方だった。
山奥は山奥なんだけど、とっても環境がよくて、しかも都心までは通勤圏(ちょっとがんばる距離だけど)のその場所の話で、これまた盛り上がった。

そんな御縁でつながって、スムーズな一日だった。

おかげさまで父は、少し良くなって、いまはちゃんとお箸で食事をしております。
願わくば、もう痛くならずに、早く治ってくださいますように。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/03/10

月のヒミツ

今夜は良い月が出ている。
ほそぅい、二日目の月である。

月って、不思議だと思わないか。
いつも私たちには同じ面しか見せてくれてない。
裏にまわったらさ、半分なかったりとか。
はたまたすごい恐ろしい化け物が潜んでいて
裏側に行ったらウワァーってすごい勢いで襲ってくるんだ。

何十年も前に、月に降り立ったひとがいるのに
そのあとひとりも行ってないのは不自然じゃないか。
実は行ってるのに、化け物に襲われてたから公表できなかったりとか。
そもそもあのときに、月に降り立ったと思ったのは間違いで、
月に化かされてぜんぜん違うとこに行ってたりさ。

いちばん近いのに、ゼッタイすべてを見せてくれない。
いつだって、私のことを見てくれているのに手が届かない。
冴え冴えと冷たいのに、心の底から癒されてたり。
なんだかつれない恋人みたいじゃないか。
いや、恋なんかじゃなくてさ。愛だよ月は。

…くすり。
と笑う月への妄想。月のヒミツ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/03/09

おにぎりの、海苔

おにぎりの海苔って、どういうのが好きですか?riceball
食べる直前に巻くパリパリしたの?
それともごはんに巻かれてから時間が経って、しっとりしたもの?
これって、いずれも「塩味」ですよね。

実は、私は(その両方とも好きだけど)一帖の1/3くらいを細長く切った海苔におしょうゆをつけてから、ご飯に巻いたのが好きです。
べつに蘊蓄はありません。
うちのおにぎりが、そうだったから。
三角ににぎったおにぎりに、その細長いおしょうゆつきの海苔を巻くと、三角のてっぺんは白いご飯が見えるんです。そこにだけ、お塩をふる。

食べるときは、海苔はご飯になじんでしっとり、ご飯にちょっとおしょうゆがしみていて、美味しかった。
母によると、おしょうゆ好きな父のためにつくったもので、もともと父の実家は塩味のおにぎりだったらしいけど、いつの間にかこっちが定番になったらしい。

子供のころから食べてる味って、年とってもそのまんま好きですよね。
このおにぎりは、お店で売ってないので、自分でたまにつくりますdelicious

ちなみに、「おにぎり」っていいますか、「おむすび」っていいますか?(笑)

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008/02/06

春なのに

節分があけて昨日が「立春」でございますよ。
なのに、ああなのに、今日は雪。
明るい灰色の空からフワフワと、ほこりのような雪が舞っておりました。
雪の日に空を見上げると、ぜんぶが灰色なのになんでこんなに何色も、色があるのかと思います。
こんなふうに、ふわふわと、光をたたえている灰色は、雪の日くらい。

で、明日は旧暦の「お正月」なのだな。
暦のうえでは寒さは「立春」がピーク。
昔は、暖かい方向になりはじめてからお正月を迎えていたのですね。

表面は寒くても、いろんなところでいろんな中で、
そろそろ活動を始めようと、いろんなものが動き始めている。
う ふ ふ 。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/01/29

今日のひとこと

「いのる」という言葉には
ただ単に「いのる」ということがこめられているのではない。

「意」が「のる」。
「たましい」が「のる」ことを「いのる」という。

なにごとにも「たましい」をのせたい と
あらためて観じた今日なのであった。
ありがとうございます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/12/16

くつがえされる

ここのところ、たてつづけに、かなりご年配の女性のお客さま、それもけっこう厳格で由緒あるお家で育ったみたいなちょっととっつきにくい方と出会っている。
最初は、あれれどうしようーと思ったのだが、しばらくお話していくととても可愛らしい。
きっと「お行儀よく」育てられて、妻としても正しく、母としても賢く、生きてきたので、ちょっと堅い印象になってしまうのだろう。それに初対面のひとに接するときはなかなか、肩の力を抜けないのだろうと思う。
そうでない面が見えてくると、育ちが良いから素直で少女っぽくて、とても親しみやすい。
第一印象を、いい意味で、くつがえされている。

こんなことを経験すると、第一印象が苦手だった方とも、なんかほかの面を掘り起こそうという気持ちも出てくるというもの。
「苦手」は難敵だけど、一転、好もしく見えてくると俄然、楽しいものである。
カタブツで可愛いおばさまたちに、感謝(^-^)。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/12/05

知恵熱

子供のようですが…知恵熱が出ました(笑)
ときどきこういうことがあります。いろんなこと考えたときとか、自分の今までのエネルギーを超えたことをしようとしているときとか。
来年に向けて、いろいろな準備をし始めたので…これは私にとってすごいチャレンジです。
計画倒れにならぬよう、タイミングを逃さぬよう、こころしてかからねば。
生活も、人生も、もういちど見つめ直す時期に来たのかもしれません。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/11/27

あしながおじさん

子供のころ「あしながおじさん」てすごく魅力的な人物だった。
だまって学校に行かせてくれて、洋服や教科書や本を買ってくれて、けして姿を現さないー。
そんなひとが、自分にもできないかなと、ひそかに期待したものだった。
でもそういうひとは現れないし、「あしながおじさん」が小説の中でやってくれていることは
たいがい親がやってくれていたので、なにも不自由なかった。

それでもうまくできたもので、身近な「あしながおじさん」みたいに、子供心を浮き立たせてくれる叔父がいて、たまに家に来てくれるときに買ってくる、定番のお土産の「ひよこのおかし」に大喜びしたり、クリスマスに必ず送ってくれるプレゼントの数々にわくわくした。
プレゼントの数々といっても、別に高価なものではなかったと思う。
弟にはジャイアンツの野球帽とか、電車のかたちの入れ物に入った缶バッジだとか、動物のミニチュアだったり、した。
私には、ヘアバンドとキラキラ光るヘアピンとか、きれいな紙ナプキンだとか、お出かけのときに持って行けそうな小さなバスケットだとかー。
そんな細かないろんなものが、箱の中にたくさん入っているので、宝箱みたいで開けるのが楽しみで仕方なかった。

いまやその叔父も定年を過ぎ、長年コツコツと働いたおかげで、つましいけれど悠々自適な生活をしている。
私もいまや、いいおばさんなわけで、そうやって無条件に可愛がってくれたひとたちが、だんだんと姿を消していきつつあるのを淋しく思いつつ、
もうとうに自分が「あしながおばさん」になってしかるべきなのだと
どれだけ人に、「わくわく」をあげられるのかなぁと
そして「わくわく」した瞳で見つめられることの嬉しさを
感じたりしているわけです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/11/19

エネルギーいただきました。

待ちに待った亀治郎さんの巡業・府中の森芸術劇場に行く。
前回浅草では、あまりの睡眠不足に意識がとびまくりだったけど、今回は無事(?)舞台に集中することができた。
今日の亀様は、ことのほか格好良かった!どの役も渾身の演技だったと思うけど、ことに貞任の力強さが印象に残った。
狐忠信の舞踊もめりはりがあって、その表現力瞬発力に脱帽。袖萩は、亀治郎さんの真骨頂でしょう。

この巡業では、亀ちゃんは、「奥州安達原」で袖萩と安倍貞任の二役、「吉野山」で佐藤忠信実は源久郎狐と、ほとんど出ずっぱりのうえ、巡業日程はかなりのハードスケジュールでほとんどが一日二回公演と、まさに大奮闘。
さぞかしお疲れもあるだろうと思いきや、今日の「亀の言の葉」が更新されていてびっくり。
なんと、八千代座から戻って府中を迎える中一日、「風林火山」で共演されていた佐々木蔵之介さんの舞台を観に行かれてたのだ。
…すっ、すごいエネルギー!

私も、ちょっとくらいのことでくじけてちゃ、いけませんと思った次第。
奇しくも、会場で購入した「第四回亀治郎の会」の冊子に
「毎日、毎時間、毎分、毎秒、エネルギッシュに活動する!」
という亀ちゃんの言葉が。
亀ちゃんは実行してるよなあ、私も実行しよう!(心意気!)

200711191552000本日は二階席から鑑賞。
府中の森のどりーむホールの緞帳は、太陽と日輪。素敵でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/11/07

本質とか、直観とか、いうこと。

たいせつな話をしたので、そのことを。(めちゃくちゃかいつまんで)

自分の本質とか、物事の本質とかって、何か?
顕在意識でみるもののことでは、ありませんよ。
いまの世の中はほとんど、顕在意識でできあがっていますので、
そこで評価されることは、あんまり、本質でないことが、多いのです。

直観できた本質は、「ほんとにー?」と思うようなことがほとんどです。
だって、いまの世の中のしくみと、違うんだもの。
だから、そのことから、逃げないようにいたしましょう。

自分の、ほんとうの、役割は何か、よく観じてみましょう。

(100パーセント、自分に言い聞かせてることです。それだけです。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/09/04

つぎからつぎ

いろんなことに気付きはじめると、次から次へとメッセージがやってくる。
いろんなことに目を伏せてても、気付けよーと、次から次へとメッセージがやってくる。
かくて私の毎日は、メッセージだらけ。
(私だけじゃなくてみなさんそうだと思いますが。。。)

で、今現在その質量がものすごく、ワタクシは大変な日々を過ごしております。
大変なんですけど、もし本質の声を素直に聞いて行動したら、以外とすんなり行けるのですね。
一見(社会的に)効率的なようでも、本質の声に耳を閉ざすと、結果的にもっとたいへんなことになってしまう。

迷っている間はなにも進みませんが、いざ心を決めたらその途端、動き出します。
なんて不思議。
いや、これが通常の流れなのかなと
実に心から観じます。

毎日毎日、もっとたくさんのことに気付いて行動したいのですが
…まだまだなんだよね(苦笑)
ま、まだまだだからこそ、今後が楽しみ、ってことで。
明日も、「つぎからつぎ」を真剣に楽しもう。p(^-^)q

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/08/24

生まれてきたら

みんな
生まれてきたからには必ず死んでいくのですが
だとしても、無理して早く死ぬことはないと
あぁ今世は 思う存分生きて学んだと
思えるまで(ホントは)生きているはず(それが役割だからね)
素直にそうありたいと
私は思う、私も私のまわりのひとも、みんな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/08/22

甲子園

今日は高校野球の決勝戦だったんですね。
ほとんど観ていなかったんですが、佐賀北が初優勝だそうで。。
昔は高校野球といえば、年上のあこがれのおにいさんたちがやっていたのに、いつの間にかちょっと年下のカワイイ男の子たちになり、そのうちずーっと年下の懐かしい感じになり、今では親のような心境で見てしまいますよ。むーん。

で、決勝戦の試合開始時間て、1時なのね。
熱中症にご注意、なんていわれている今日このごろなのに、なにもいちばん暑い時間にやらなくても…と思うのはオバサンの証拠?むむーん。

今日は、さすがの私も暑さに負けたのか、食欲もないし、冷房入れても気分悪いし、いれなきゃ頭がガンガンするし…で、家でプランする日だったのをいいことに、ダラダラと寝転がって、集中力もなくただボワァーッとテレビを見てたりしてました。
夜はちょっと涼しくなってきた(ような気がする)ので、昼間できなかった仕事をしています。
こんなときは、仕事場兼自宅、というのがとてもありがたいですよ。
明日はちょっとまし(?)なようですが、まだまだしばらくがんばらなくちゃ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/08/16

いたみを知るということ

今年はひょんなことから8月15日を韓国で迎えたわけですが
日本では「終戦記念日」といわれているこの日は
韓国では「独立記念日」であります。
その日に奇しくも韓国にいたということは、とても不思議な感覚であるとともに
日本人としては(その時代をつぶさには知らないとはいえ)複雑な気分です。
ソウル市内では(なんの集まりかはよくわかりませんでしたが)
軍隊や一般市民のデモ隊(?)を実にたくさん見かけましたし
民族衣装を着た衛兵も数多く、なにかの式典をおこなっていました。

今回関わらせていただいた仕事は、韓国の方がオーナーで、スタッフももちろん
全員が韓国人です。
みなさん親日家で、日本語を話せる方も(若い方には特に)多く
仕事上では習慣のちがいから意思疎通がなかなか大変でしたが
ほんとうに良くしていただきました。
けれども、そんな彼等もその日、なにがおこなわれているのかを
私たちにあまり説明してはくれませんでした。
もちろん、仕事で手いっぱいなこともありましたが
伝えるにはあまりに色々な事情がありすぎるのでしょう。
また受け取る私たちも、軽々しくは聞けないものがあります。

通りかかった道で、這うようにして歩くひとがいて
思わずびっくりしてそちらを見たら
(日本でも十年以上前ならときどき見かけた)傷痍軍人さんでした。
両足を失っていたので体を板の上に乗せて、いまだ軍服を着て移動していたのです。
韓国でもいまはほとんど見かけないという、現地の方の話でしたが
ひとつひとつに心が痛みました。

戦争がこうして、いまだに傷を残しているということ
だれしもが否応なく「被害者」であり「加害者」でもあったということ
その両方がこんなにも「痛い」ということ
いつまでも忘れてはならないことなのだと
身にしみて感じた 私にとってとても貴重な8月15日だったのでした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/08/04

煌めき

昨夜、件の知人の結婚パーティが無事終了。
海に近い会場のレストランでは
台風が来るかとドキドキしましたが、風がとっても強いくらいで雨は降らず、感謝。
おかげさまでデザートは、お庭でみなさんでいただくことができましたし、
すべてがとっても和やかで温かくて穏やかな時間の流れる素敵なパーティでした。
お料理も、自然な素材の自然なお味を活かした、調和のとれたものでとても美味しかったですし。
主役のおふたりが手作りしたものが随所に溢れていて、
おふたりの心遣いがまた、やさしく包み込むような、なんともいえない空気感をつくりだしていました。

席次表や、テーブルの上のカードも手作り。
テーブルの名前もおふたりがつけたということで、私のテーブルは「煌めき」でした。
「煌めき」のカードの裏には、キラキラの光の絵が描かれていましたよ♪
そのように、キラキラとした光で、自分もいたいものです。

私にとっていちばんのドキドキ、お振り袖のお着付けも、なかなかうまくいって、
嫁御様のお母さまにも褒めていただけたし、ご本人にも喜んでいただけたようで、
いやーほんとに、良かったぁ!
もーほんとうに、これが気掛かりで、練習したりイメトレしたり(笑)前日も眠れなかったり(笑笑)。
着付けから洋装へのお着替えから、ぜーんぶしたので、大変でしたがよい経験と学びになりました。

こんなお声がかからなければ自分からはきっとやらなかったであろう役割を、
でもきっと自分の本質は“ぜひに〜♪”と望んでいることを受け止めて、
勇気をもって一歩を踏み出して
・・・よかった。
またとない貴重な経験をさせていただきました。
また、活かしていこう。たゆまずに。
ありがとうございました。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/08/01

クリア2

本日のクリア。

着付けをしているときに気付いたのだが
どうも中心が右に寄る。
正面から見ていないのと、私は乱視が入っているのと。
果たしてそういう目に見える現象だけが問題か?

(ほんの些細な、でも些細がたいせつな)頼まれ事を
キレイさっぱり忘れていた!
いくら忙しいにしても、毎日がドタバタだとしても
(観劇三昧なこのブログですが、いちおう寝る間も惜しんで
仕事や家事や諸々のこともやっているのよーん)
「キレイさっぱり」させちゃうものって、何?

やっぱり「結ぶ」のが下手な私。(そのことを、以前も書いた→コチラ
思わずひとりごちて、自分に気付く。

観じてみると
イタイことから目を外そうとするコミュニケーション下手なワタシ
というのが浮き上がってくるのだ。
ちゃんと受け止めて自覚できたら、行動とともに
クリアできていけるのだ。
ひとつづつ、ひとつづつ。
実に実に、ひとつづつ。
そんな「クリア」と「クリア」の毎日なのさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/22

クリア

今日の打ち合わせにて。
「クリア」にするということ、「クリア」するということ、
このふたつがいまとっても大切だということ。
そう気付かされた途端、もろもろの滞っていたこととかグレーになってたこととかが、どっとかたちを変えて押し寄せてくる。
おかげで、とても敷居が高くてやりづらかったこと、躊躇して進まなかったこととかを
どうしてもやらなければならない状況に陥る。
そこにはかなりの勇気や工夫や努力が必要だけど、機会をいただいて何とかやりおおせる。ひとつ、ふたつ、少しづつクリアしていける。
ありがたきことかな。

以前は、仕事をするのに、なぜ人生や人格を問われるとこまでいかなければならないのー!
と思ってた時期もあったけど
今は確実に、「生き様」が全てに反映されてくることを納得せざるをえない。
だから、毎日がたいせつ。「気付いたら行動」がたいせつ。
ひとつひとつは少しのことなのだけど。

そんな流れの一環で、お世話になっているかたの結婚パーティの、お振り袖の着付けをさせていただくことになってしまった。
顕在意識では「ムリムリ、絶対むりーっ!」(だって何年も着せ付けてないし自分もここのところ着てないし)と言っているのに、奥底の私の魂の本質は「ぜひにー♪」とやる気まんまんだったのだ。
これに気付いてしまったら、やらせていただかないってわけにはいかんでしょ。
花嫁御前も、勇気あるお方でございます。
ほんとうに、ありがたきことかな。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/07/16

いまおきていること

台風が去ったと思ったらこんどは新潟で大地震が。
東京もかなり揺れました。揺れがけっこう長くて、恐かった。
でも、なにも落ちたり壊れたりせず無事でしたが。
そして、台風のあとだから蒸し暑さを覚悟していたら、ものっすごい涼しい!
…なにか、おかしくなっている。
お互いを揶揄したり、利用ばかりしようと企んだり
そうこうしてるうちに素直に向き合えなくて反発してしまうように感じるのだけど。

意味不明、それとこれとつながらないように思われるかもしれないけど、
けっこう大事なことじゃないかと私は思ってる。
「謙虚」とか「素直」とか ということが。

災害の渦中にあるたくさんのかたがたにお見舞い申し上げます。
すこしでもはやく平安が訪れますように。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/07/14

実行力

こころにいろいろなことが閃いても
具体的にはどうしたらいいかわからなかったり
自分がそんな器じゃないと勝手に決めてたり
ただ、だらけていたりして
置き去りにしてきたことが山と積まれている。

その積まれたことが滞りになって
今となっては 自分を阻んでいる。

滞りを流してゆく
置き去りにしたものをふたたび蘇らすことのできる
そうして自分を進化させてゆける
そんな自分で在れますように。

実行を促してくださるすべてに ありがとうございます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/13

ちいさいころ

走っている電車にむかって手を振って
もしももしも
乗っているひとが手を振り返してくれたら
とっても嬉しかったっけ。

いまでは
だれか子供が手を振ってたなら
私も振り返してあげようかと思うけど
そんな景色もだんだん失われてしまったねぇ。

いまでは
線路の脇の土手にに伸びている
ヒルガオを摘みにいく子供なんていないんだろう。
高く高く塀があって
土はアスファルトで固められているものね。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007/07/07

きらきら

たなばた。
私にとっては「きらきらビーム」な日でござんす。(なんでかは去年の7/7の記事にあるなりー)
(あ、あんまり関係ありませんでした?私事ですみませーん!笑)
今日は偶然にも、その頃のプロジェクト内容に通じるセミナーがあって参加してきましたが、「きらビー」メンバーにも数人、お会いできましたよ♪

身のまわりに起きるいろいろなことは、必然であって、けして偶然ではない。
ほとんど聞き慣れているような言葉ですが、ことあるにつけ、これは真実なのだと実感します。
今日会えたこともしかり。

悪い出来事だって必然だと、思えないひともたくさんいるようですが、自分に都合の悪いことも悪い人も、自分の学びのための「必然」なので。
どのように自分がそれを感じ取り、感謝と謙虚でうけとめて、気付いたことを実行していくか。
本来あるべき本質でもって正面から向き合って実行したら、その「都合わるいこと」も、きちんと完了して、自分のもとから離れていきます。(または、新たな展開に発展するとか)

いろいろなことから、こんなちいさな自分自身はとても大切で、自分が発したことは確実に回りに影響を与えるのだから、こりゃうかうかしていらんないよねっ!と感じた一日でした。
かなり、特別な一日でございましたよ♪

今日って、スリーセブンだったんですね♪070707〜(^^)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/06/19

渋谷

夕方から渋谷で打ち合わせ、そのあとロケハンに向かう。
向かう途中にいつもはいない道路警備のひとたち。
?と思いつつもさらに坂を上ってゆくと尋常でない消防車やパトカーの群れ。
いつかここで見たレッドカーペットのように長く長く並んでいた。

…ほどなくそれが、近くで起きた爆発事故のためだと知る。
地震か、雷でも落ちたか、と思うくらい地面を揺るがす衝撃だったらしい。
ほんの数日前、私はその建物を(ようやく)初めて発見し「こんなところにこんな施設ができたんだなぁ」と思っていた。
そんな矢先。

私たちは、心地よく暮らしたい癒されたいと願うあまり、とても欲張りに傲慢になっているんじゃないだろうか。
そんなに癒されたいと思うほど、切羽詰まった毎日を送る社会をつくってしまっているんじゃないだろうか。
私たちが悲鳴をあげる直前なように
地中深く穴を掘られるほうだって悲鳴をあげてしまうんじゃないだろうか。
なぜ悲鳴をあげるまでわからないんだろうかと
もうすこし穏やかに優しくものごとを考えられるようになれれば
そんなことは起きないんじゃないかと
観じるたびに せつない。

絶対に眠らないだろうと思い込んでいた街が
その一日の流れを大きく踏み外した。
それなのに数百メートル離れたところでは
もういつもどおりの顔。

お亡くなりになられたかたたちのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2007/05/27

ボーダー

「気づき」の話。

Aちゃんは、どうしてもやりすぎてしまう。
ちょうど良いさじ加減というものを通り越してしまう。
それは、無理をしてでもやらないと自分が許せないから。
だからそうやって、自分を痛めつけてしまう。

Bちゃんは、とある体験から「こだわり」の行方を思った。
あまりそれが強すぎると、エゴとなる。
ところがこれは強力なエネルギーで他をひきつけてしまう。
本来よいものであったかもしれないそれは、いきなり逆回転のものとなる。

私は、行動の絶対的不足は何故かと思う。
直感で、こうしたらというメッセージがきていても
「それは正しいのか」「精度は高いのか」と、ありきたりな基準でものを考え
せっかくの直感を握りつぶしてしまう。
それは未知の分野に足を踏み入れる、恐怖でもあり怠惰でもある。

いずれも、ボーダーの話。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/19

二日めの月が好きらしい

夜の月がとってもほそかった。
まだ三日月にも満たない月だ。
か細くひそやかに、冴え冴えと光を放ってた。

その近くに、強烈にエネルギーを放つ金星がいた。
月よりも金星のほうが遠くにいるんだよね?と
確認しちゃいそうなくらい強い光だった。

ふたりはトルコの国旗みたいに
いいかんじに並んでた。
両方とも、むかし住んでたみたいな、懐かしいかんじだった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/05/08

灯す

ここのところ少し
観じる心力(こころりょく)が低下していて
なんだか与えられたものでしか観じてないような気がして

キャンドルに火をともしてみたのだ。
キャンドルの火はとても落ち着くから。
自分の中のほうまで見つめる気がするから。

「灯す」という行為は
けっこう肝心なことかもしれないね。

ここのところ、ほんとうは
いろいろなものが滞っていたのさ。
すごーい怠慢な「おさぼり」なので、
もちょっとクリアに生きなきゃな なんて
思ったものですから。てへ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/04/25

ひとりごと

つめたい空気の夜でした。
雨があがって雲の奥から月の光が射してきました。

ああ今まで厚い雲に遮られて
せっかく気付けたことにも気付かないふりしてたけど
もしかしたら、いえしなくても
自分自身のキモチがかけた雲でしょう。
ほんとは見たくなかったんでしょう。

それは逃げともいう怠け心ともいう。
やらないほうが楽かななんて思ってさ。
ところが本当に自分がやるべき役割のことならば
やらないほうがつらくなるのだ。

ということにも気がついて
キモチにも光が射したような気がするよ。
そんな気持ちに夜の空がリンクして、なんだか嬉しかったのさ。
明日も明後日もずっと
その光が射したままに保てますよう、発展しますよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/18

「最後の家」

というタイトルで、木皿泉さんがエッセイを書いていた。
「最後の家」とは「死ぬときの家」のことだ。
九十二歳でひとり暮らしのおじいさんが、市の職員に施設に入るのをすすめられても頑として受け入れようとしない。
いわく「家族と住もうが施設にいようが、誰も見ていない時に死んだら孤独死じゃないか。むしろ人がいるにもかかわらず誰にも看取られずに死ぬ方がはるかに孤独だ」というのだ。
それならば、お仕着せでなくて自分で選んだ場所で死にたいということなのだろうか。
そして、木皿泉さんはおじいさんに共感を覚えたといい、ご自分が死に行く場所や、死ぬときの自分の心象を想像しそこに本当の自分の姿を見たという。
それはとても幸せな光景のようだった。

私はいままで、そんな考え方をしたことがなかったので驚いた。というか思い付いていなかった。
家は、進化して生きるための土壌となるような、光となるような場所であって、
静かに死を迎える場所としては捉えていなかったのだ。
でもさいきん、立て続けに伯父や伯母が亡くなったり、知人の親御さんが亡くなったり
自分も年をとってきたりして、それは前よりずっと身近なことになりつつある。

よく生きることはよく死ぬことだ、と言われるように
生きていく場所は死んでゆく場所でもあるのかもしれない。
猫は自分の死に場所を選んで姿を消すというけれど、
人間も同じなのかもしれない。
生きるために活性化できて、死を迎えるために安らかでいられるような、
そんな心のこもった家。ちいさくて、いいんだ。
あたたかくて、光に満ちていて、安心できる、たいせつな場所。

そういう視点もすこし交えて、これからは仕事していこう。
そういう視点も、たしかに、あるんだな。
「家」という場所には。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/04/15

忘れ物

今日最初の仕事先から、次の仕事先に移動する時のこと。
いつも駅まではバスで行くのだが、バス停に行ったらちょうど行ったばかりの時刻だった。
交通事情で遅れていて、まだ来ていないことも考えられるけど、たまたま本数の少ない時間で(休日だし)次のバスまで30分もある。
最初の仕事は巻きで終わり、予定より早めに出たから、30分後のバスでもいいけど、でも30分待ちは暇すぎる。
なら歩いたほうがいいかなーと、歩き出した。
でも、ちょっと「ひっかかり」があったんだ。

なんで、こんなに間が悪いんだろう?(私は割と間がいいほうなのに)
そして、歩いて駅まで行くのは間がいいかどうかもう一度感じてみた。
こういうのは、だいたい最初に感じたことが当たるのだ。
で、最初に歩こう、というのがきていたから、やっぱり歩くことにした。

そしたら、なんと!バスが来ちゃった。
私はもうバス停から100mくらいは離れていた。ええーっ。がちょーん。(古!)
間が悪い ×2。おかしいなぁ。
この巡り合わせはなんなのだ。プンプン。

と、歩いていたら、その仕事先に、次の仕事で使う資料を入れたケースを忘れてきていたのに気付いた。
うわーっ。これはどうしても戻らねばならない。
…かくて、歩いて戻って、結局30分後のバスに乗った。
みんなに「あれっ?早いお帰り〜♪」なんて笑われてちょっと恥ずかしかったけど、
そしてもともと忘れ物なんかしなければ、もっとスムーズだったんだけど、
でもいろんなもののタイミングのおかげで被害が一番最小限で済んだ。
自分が歩いた分の体力を使ったのみ、っていうね(笑)。
歩いてた間に電話も2〜3本できたし、運動不足だからちょうど良かったかな。

振り返ればやっぱり、最初の直感を信じて良かった、ほんとうにありがたいことだったのでした。
あとの仕事はとってもスムーズでした。えへ(^-^)v

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/04/12

進行形

ここ数日、家で仕事をする日が半分くらいを占めていて、チョット幸せです(^-^)
外に出るといろいろね、落ち着かないこともありますし、自分でいうのもなんですが私は自分の家がとても心地良いのです。
仕事もね、直観が冴える感じ。

いちおうこの住環境は、私なりに「心地よさ」「本来の魂が磨かれること」「光に溢れていること」など(かなり抽象的ですが)に留意してつくってきました。
いつでもそれは「進化中」ですから、「はいこれでできあがり!」っていう時はないんですけど、
でもここに存在するすべてのものたち(人間も、植物も、虫も、椅子やテーブルやコップや石けんや石ころや…本当に「全て」です)が、生き生きと存在できるような空間をつくること、
それが私の(仕事での)役割だと考えています。
もちろんデザインの組み立てあってのことで、いまお話したことはそこに吹き込まれる命のようなものといっていいでしょう。

人間もそうですが、自分に対して愛情が注がれているなと感じるときは、生き生きして輝いてくるでしょう。
ものたちも、同じなんですよね。
日々、たとえば椅子に「私のお尻を乗っけてくれちゃって、ありがとねー」なんて思っていると、椅子も「よしっ!」と一生懸命役割を果たしてくれるという感じ。
そうすると、全体の空気がキラキラしてきて、自分自身に還ってくるのです。
それは「活性化」というものです。

私のこの仕事は、デザインありき、スタイルありき、ですが、そこに「活性化」「光り輝く」というエッセンスをすこぅし、注ぎ込むことができればな、と思っています。
…ほとんど、自分自身に語りかけるようなつもりで、書いてしまいました。いってみればこれは、自分への「コミット」かもしれません。(^-^;

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/09

ユメ

明け方に夢をみたんですが

私はのどかな公園のベンチかなんかに座っていて
うららかな日でそれはそれはとても気持ち良くて
そしたら大きな男のひとがきて「これ食べる?」となにか持ってきた。
それはソフトクリームとかの可愛いもんじゃなくて
おにぎりとかおまんじゅうとか、そういうものだったと思う。
私は、うんにもならない「ん」と短く答えてすぐにそれにパクついた。
男のひとも隣りに座ってだまってそれを食べてた。
なんにも言わないけど、のどかで安心で
すごーくシアワセなユメだった。

で。
目が覚めて思いだしたんだけど、その男のひとは、なんと
「ぐっさん」だった。
そりゃ私はぐっさんは普通に好きだけどさ、ユメに登場するまでじゃないのよ。
でもすごーくシアワセな雰囲気で、目醒めも良かったのー。
「ぐっさん」でこんなにシアワセになる私って。。。
もしかしてぐっさんは、私の「隠れ」理想像だったのかも(笑)。

ま、「ぐっさん」はともかくとして
そういうことが「シアワセ」なんだよねと
感じさせてくれたユメでしたとさ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/03/22

ちいさい「たいせつ」

毎朝、はがきをぽとんとポストに入れる。
父へのはがきだ。
内容はたいしたことない、
「今日は寒かったね」とか「近所の犬がものすごいあくびしてた」とか
些細なことだ。
でも毎日書いている。

仕事先では、そこにいるひと
ひとりひとりに一回は、必ず声をかけるようにしている。
「ありがとう」とか「お茶おいしいね」とか。
これまた些細なことで。
ひとことでも、声をかける。

まいにちは、ささやかなことのつみかさねでできている。
そして、ささやかなことは、けして軽くない。
ささやかなことは、とっても、深いんだ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/03/20

おぼえがき

にんげんの、70%は水でできています。
地球の表面の、70%は水でおおわれています。
なぜ70%で、おそろいなのでしょう?

人間を「小宇宙」というように、私たちは日頃から、なにか宇宙と自分とはつながっているんじゃないかと、漠然と(でも直感で)確信しているところがあります。
宇宙は、自分達を取り巻く、膨大な、不思議な存在なのですが、ふりかえれば人間も膨大で不思議な存在です。
遠く星空を見つめても、遥か遠い感覚だけではなくて、懐かしい気持ちにもなります。
宇宙の遥か彼方にまで出かけて行きたいという願望は、自分自信の奥深くまで辿り着きたいという思いと、同じように感じるのです。

宇宙の流れは、自分自身の流れでもある。
そうあることを大切にしていると、いろいろなものが見えてきます。
ここのところ「普通の社会の流れ」に引っ張られ過ぎ、自分の「直感」を大事にしていなかったと感じました。
もういちど、流れに身を戻そうと思いました。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2007/03/02

おもいつき

ふと思ったんですが
以前どこかで読んだ
「上下四方を宇といい
 往古古今を宙という」(『尸子』)
って
この前の伝統文化セミナー(「調べくらべ」をみてくだされー)での
お能の“立ち方”と同じことではないですか?

すごい 深いんですね。。。
ますます興味がわいてきました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/03/01

ぎりぎりなのかも。

もう三月に入りました。
私は「ほぼ日」手帳を愛用してますが、それには旧暦とともに今年が始まってから○日め、という記載もされていて、今日はちょうど60日目です。
ついこの前、旧暦の元旦だわ仕切り直しだわなんて思っていた(その日は49日目)のに、早いもんです。
この時間の流れを、自分はちゃんと受け止めて過ごしているのかなぁ。

…明け方に、夢を見ました。
私は、行き先をちょっと急いでいて、そこに向かうためにバスに乗りました。
発車した途端ものすごい地震が起きて、バスは制御を失ってすごい勢いであらぬところに突進、必死の思いで車内で踏んばる私(や他の乗客)の目に入ってきたのはその先にいるたくさんの人!
そのまんま突っ込んだら、、、!というすんでのところでバスは急ブレーキがきき、あぁ良かったと思うのもつかの間、勢いあまってまた違う方向へ。
地震もなかなかおさまらず、バスはあっちに突進、こっちに突進、を繰り返し。。。というコワイ夢でした。

どこに突進しても、ギリギリのところで止まるので、けが人はなく惨事にはならないのですが。
これって、なに?
私のこと?なにかのメッセージ?かと思うとちょっと…。
今年に入って60日目、約1/6を過ぎたところで見たこの夢、たいへん意義深いと受けとめ、我が身を見つめることにいたしまする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/02/19

宇宙のはて

大切な友人K嬢と、宇宙の話。

長野には、「宇宙のはて」を見られる天体観測所があるのだとか。
「宇宙のはて」って、こわくない?とK嬢が言う。
でも、「宇宙のはて」って、膨張し続てる、って私は聞いている。
そしてホントにそうなんだろうと感じる。

そしたら、「はて」は膨張しつづけてて、
それならば「はて」は「はてしない」ものなので

いつまでもいつまでも
宇宙も宇宙の一部の私たちも
はてしなく膨張=進化できるんだよね。

それって、こわくない。
それって、「わくわく」だよね。
宇宙とか、私たちって、「そういういもの」なんだろうかなぁと、
思ってほっくり。

こんなふうに考えさせてくれたK嬢ありがとうー♪

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2007/02/18

新月で一月一日

今日は旧暦で一月一日。
そして新月。

旧暦は、月の満ち欠けにならってつくられたもの、ということがわかっていても、なんだかこの日に並々ならぬエネルギーを、感じてしまう。
ゼロから始まる新しい一年。
これから徐々に満ちていく新たなエネルギーに期待が膨らむ日。
そんなことを思って、昔のひとが暦をつくったのか、よくわからないけれど、

とってもとっても重要な意味を持つ。
そんな日なことは確かだ。

くりかえし、くりかえし、新月と、
満月を迎えるエネルギーの波に、
素直に乗れる自分でありますように。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/02/13

イメージ

本を読んでいたら「ボロ屋」という表現が出てきた。

わたしはずっと「ボロ家」だと思っていた。

イメージだけど、
「ボロ屋」って、ボロがパーツパーツに分かれてて細分化されてるかんじ。
「ボロ家」はとにかくまるっと全部、ボロってかんじ。

正しいか正しくないかは別として
その文字の持つイメージによって意味が変わってくるなぁ。
コトバは、そして文字は、なんと大切なことよ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/02/05

いちご

某所で。一部のイチゴから、規定範囲以上の農薬が検出されたとかで、その地域から生産されるすべてのイチゴが出荷中止になったというニュース。
市場に出るばかりにパッケージされた赤いイチゴたちは、行くところを失ってトラックに山積みされ、廃棄処分されに向かう。
ごろごろとイチゴだけを積んだトラックの荷台からポトポトと、イチゴの果汁が流れ落ちていて、なんだかそれはイチゴと生産農家の人の悲しさみたいに見えた。

規定以上の農薬が検出されたのは問題だし、それを食べてしまったら大変だけれども、
捨てられるイチゴの全てが過度の農薬を含んでいるのかどうかは全く不明、むしろ通常に出荷できる状態のもののほうが多いと言われている。
なぜそんなことになったのかというと、任意の数パックを選んで検査するさいに、どの生産者のものかどうかをチェックしなかったということ。
なので、可能性のありそうなものはすべて処分、ということになったらしい。

不安の残るものが市場に出荷されたら、消費者は徒に不安がつのり、イチゴを買おうという人は激減するだろうから、その処置はある意味やむを得ないといえる。
だけど、処分するものを最小限に押さえることは、チェックする側のちょっとの手間でできたはずだ。
いやそもそも、気をつけていたはずなのに何故そんなに多くの量の農薬が残留してしまったのかということも調べなければならないだろう。(今回問題になっている農薬は、イチゴを育てる前の土壌に使用されるもので、土の段階で害虫を駆除しておき、その後雨により流され浄化されていく、というものだったらしい。安全性を考慮している方法のひとつだったようだ)

ちょっとの手間を惜しんだり、ちょっとくらいだからいいだろうとたかをくくっていたり、ということが原因で
とても大きな問題になっていることが、最近多いような気がする。
ちょっとの積み重ねが、大きいのだ。
ちょっとくらい、私ひとりくらい、と思って手を抜いたりするのは、きっと大変なことなのだ。

そういうことのために、せっかく丹誠こめたイチゴを、捨てるはめになってしまうのは、心がいたむ。
私はイチゴは育ててないけど、私にとってのイチゴにあたるものを、きちんと出荷できるように気をつけねばなぁ。

イチゴ、大好きなのに、毎年この時期にはイチゴの甘い香りを楽しみにしてるのに、処分される映像を見てせつなかった。
処分の作業をしてる農家のひとたちも、せつなそうだった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/02/03

月は暦

今日、仕事帰りに見た月があまりに低くてオレンジ色で、驚く。
昨日満月だったし、夕刻の、地上の空気の揺らぎ立つなかにいたせいか、ほとんど欠けていないようにも見えました。
陽炎のようにゆらゆらと、あかく、まるく、不思議に大きく。
地平線に近い月は、なんであんなに大きく熱く見えるのでしょう、、真夜中に、天空にあがった頃は遠く小さく冴え冴えと凍えてみえるのに。

その月の下。
今夜は節分、古く中国の「追儺(ついな)」の風習が日本に伝わり「豆まき」となったとか。
節分は、いまは2月の行事だけれど、もともとは季節の変わり目(立春、立夏、立秋、立冬)のこと。とくに立春が旧暦の新年だったため、年神様が来る前に鬼を追い出し家を浄める、という意味合いがあって立春の前日に豆まきをするようになったようです。(暮らしのミニ知識より)
地域によっては、追い出された鬼たちを迎え入れる「鬼は内」と言うところもあるようですし、
鬼を登場させない「福は内」だけのところもあるようですね(今夜亀治郎さんが豆まきを行った成田山は、こっちだったかな?)。
どこの家でもさかんに大豆がとびかっていることでしょうが、昔からの風習の意味をあらためて調べてみると、心が引き締まる思いです。
単なるイベントではなくて、きちんとした意味があっての行事なのです。
いまの暦だとなんの意味も感じないけれど、旧暦ではそれぞれの事柄に、すべて意味があって符合していたのですよね。

そして明日は立春。(もう!ですよ早いなぁ)
満月の次の日に節分を迎え、そして立春となる。
なんともいえない、不思議な暦の積み重ねを感じます。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007/01/27

おぼえがき

「上下四方を宇といい、往古来今を宙という」(『尸子』)

中国の古書。
古くから、「宇宙」は空間だけでなく時元もふくんだ概念だったのか。
時元は、次元。
つねに多次元のものは同時に存在するということか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/01/26

ひとりごと

いまちょっと、なかなか進まない仕事がある。
とりかかってしまえば、きっとすぐに終えられるのに、自分がぐずぐずしているのだ。
ぐずぐずしているのには、いろいろあるんだけれど、
その「いろいろ」は全部、いいわけだということも自分でわかっているわけで。
そういう、ぐうたらでいいかげんで嘘つきな状態だから、いろんなメッセージがくるのだ。

…たとえば、鍵を失くすとか。
きっと、きっとね。
そうやって、いろいろなサインをくれて、気付かせようとしてくれてるんだ。
そのサインでさえも見てみぬふりをしたら、これはもう、いかんのですよ。
ありがとうございますと、受け止めるんですよ、ね。

あーあとね、ちょっと柔らかく受け止めようと思ったの。
おだやかにゆるやかに、でもって決めるのは迅速に。
そういうなかにも楽しさを、忘れずに。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/01/25

さじかげん

今日はお知り合いの方と、海幸のお店に行きました。
漁師風な雰囲気のつくりで、素朴ながら居心地のよいかんじ、お店の方も気さくで正直な印象。
お魚は新鮮で、樽に入れて席までもってきてくれたのをその場で選んで、調理法もリクエスト。
おいしくって「はなまる」でした♪

そこで、その方と話したことの一(ひとつ)。
最近いろんなことが起きているじゃないですか。
なんでこんなふうになるんでしょうねぇなんて。

その方いわく
最近では、正しいか正しくないか、白か黒かのどっちかで、間のグレーゾーンってものがどんどん少なくなってる気がする。
グレーゾーンっていうのは、見方を変えれば、許容量の触れ幅みたいなもんで、これは悪い部分もあるかもしれないけど、「必要悪」ってのもあるからね。
キレイなものだけで毎日がつくられてたらさ、人間が本来持ってる黒い部分は、どこにいっちゃうのさ。
そっちも少しは認めてあげて、ちょこちょこ出してればいいのにさ。
白いとこばっかで暮らそうとするから、ガマンできなくなっちゃうんだよ。
その「グレーゾーン」の扱い方はさ、経験がないとうまくできないからね。
さじかげん、ってもんが人間が生きていくのに、どんなに大切か。
白か黒か、だけではつらすぎるんだよ。

なるほどそうだと思いました。
日頃、自分でも思っていて、でもなかなか言葉にできなかったことを、とってもうまく表現されているというか。

白黒はっきり、という風潮は、たとえば私が毎日関わっているインテリアの業界でも、その商品性能に如実にあらわれているなぁとも思いました。
たとえば、照明器具などは、センサ付きのものが非常に増えてきています。
これは、人がくればそれを感知して自動的にあかりが点いてくれる、とても便利なもので、防犯にも一役かっています。
が、逆にみれば、これは「照度」とか「温度」とかのデータで判断されるもので、人間が体感するものとは少し違います。
「このくらいの明るさだったら、外灯は点いてたほうがいいかな」とか
お隣のお家にへんな人が侵入してないかなんとなーく気を配ってたりとか
トイレを出るときに電気を消したかちょっと気をつけるとか。
ほかに考えることがたくさんあって、忙しいから、と言われそうですが、こういうなんでもなさそうなことを、考えられなくなることのほうが、生活力を乏しくさせてきてるかと。
そういう、毎日の積み重ねが、「ちょっとしたさじかげん」を配慮できる気ばたらきを、育ててくれるんじゃないかと思うのです。

もう少しアナログに、人間とつきあっていったら、大切なさじかげんも培われるんだろうに、と
今日のその方のお話を聞いて、思いました。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/01/14

雑穀ご飯

ご飯を炊くときはいつも、普通のお米+発芽玄米+雑穀を、適当にブレンドしているのだが、雑穀をきらして買い求めにいったらお気に入りの雑穀が、、なーい!
押し麦だのはと麦だのあわだのひえだの、のほかに、小豆や黒豆が入っているのが好きなのだ。
いつも行っている自然食品のお店にもないし近所のスーパーにもないし…。
今や白米だけのご飯がもの足りない私、どうしようかと思ってたらなーんと!
丁度良くポストに投函されていた広告が、とっても欲しいラインナップにドンピシャリ!
いつもはポストインされてる広告などすぐに捨ててしまうのだが、部屋までちゃんと持ち帰り、内容を熟読してお買い上げ〜♪
届くのが楽しみだ。

こんなふうに、さりげなくタイミング良くやってくるものには、きっとご縁があると思う私。
中には、せっかくタイミング良く到来してるにもかかわらず、気が付かず見逃しているものもあるに違いない。
そういうものに細やかに気付いて、スムーズな流れの中に身を置きたいなぁと思う。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2007/01/13

花が咲いた

いまのマンションに引っ越した時、前に住んでいた方が「ここに居たいみたいだから」といって置いて行かれた植物さんたちが、いくつかある。
ジャコバサボテンもそのひとつで、ただほかのものたちと違うところは、まだ株を分けられたばかりで、根がついていなかった。
その後、様子をみて挿してあったグラスから植木鉢に移し、根がつくのをゆっくり待ったけれど、なかなかそんな気配はなく、葉っぱも増えないし背も伸びないし、枯れる様子だけはなかったけれど「この子はいったいどうなっちゃうんだろう?大丈夫かなぁ」とずっと思っていたのだ。

それが、今年、はじめて蕾をつけ、キレイな花を咲かせた。
あいかわらず背も葉も伸びていないので、短い葉っぱの先に、重たそうな花を付けている。
反対側に、もうひとつ小さな蕾がある。

嬉しい。。。
じっとじっと待って、準備を整えて、やっと花を咲かせたように見えるこのサボテンさんに、「ホントによかった、ありがとうね」という気持ちが溢れる。

嬉しくて、前の住人さんに報告したところ「サボテンさんは感性の鋭い植物だから、たくさん対話ができますよ」とお返事がきた。
人間だけではなくて、いろいろなものたちと交流を持つことができるのは素敵だ。
ちょっとそんなつもりで交流(?)してみたら、特に力んで花を咲かせているのではなくて、状況が整ってその時がきたから自然に咲かせているのだと言っているみたいだった。
力はいつでも、同じ加減だよと、言ってるようだった。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

俊寛の自己犠牲

ずっと書きたいと思っていたことだ。
でも、わたし自身にとってのひとりごと、メモ程度のことでもある。

寿初春大歌舞伎で観た「俊寛」は、実は特別観たい演目ではなかった。
なのに、吉右衛門さんの演技には見事に泣かされた。
泣かされたということは、どこかに共感を覚えたからだと思うのだが、涙のあとにくるものは何やらわりきれないキモチである。

俊寛は、僧ではあるけれど政治的敗者で、謀の共謀者とともに鬼界島に流されている。
数年ののち島に赦免を告げる使者の舟が着くが、赦されて島を出ることのできるのは上意のあった3名のみ。
この島に流されてから島の海女と結ばれた康頼は、妻を伴って島を出ることができない。
島に置いて行かれる海女・千鳥の悲しみをみて、俊寛は自分が島に残り千鳥を舟に乗せることを決意する。
かくてつらい別れののち、はるか海の彼方に去っていく舟を追いつつ島にひとり残される俊寛の嘆きで幕がひかれる。

…美しく感動的な犠牲の精神である。
子供のころ読んだ童話(「クレオ・愛の学校」とかそうだったと思う)にも、そののち映画や小説にも、この手の話は多く見かけられる。
でも!
自己犠牲のうえに他の幸せは成立しないと、それは愛ではないと、私は思うのだ。
考えてもごらんなさい、こうして故郷に妻を連れ帰ることができた康頼は、「これも俊寛のおかげ」とつらい思いで感謝しつつ、「俊寛のためにも幸せにならなければ」と、またつらい思いで決意するであろう。
なにか心の奥に楔がひっかかっているようではないか。
いっぽうの俊寛は、「康頼たちは添い遂げられる」という安堵とふたりの幸福を思う気持ちでいっぱいであろうが、その反面自分は「死んだも同然」な生き方を選んだのだ。
はてしない孤独感、諦め、悲しみとともにただ残りの時間をつぶすのみである。
これでは「俊寛」というひとのカラダに宿った「魂」に、申し訳ないのではないか。
こうして傷ついた魂は、ずっと悲しんで、世をはかなんで、負の影響を周囲に飛ばし続けるんではなかろうか。

古来、日本には、非業の死を遂げたひとを「神」として祀り魂鎮めをするという習慣があるようだ。
またあまたの宗教も、自己犠牲の逸話を多く伝えている。
これがよしとされていたのか、それとも人間のどうしようもない業として語られているのかは良くわからないけれど、私たちは「それは乗り越えられるのではないか」ということを、直感的に知っている。
乗り越えることがとても困難なこともわかっているけれども、可能性があることを知ってしまった以上、その心の状態はなんだか不十分な、わりきれないものとして残るのだ。
そして乗り越えられないまま放置されている悲しい魂にも、共感できるのだ。
ほうっておけない煮え切らなさが、そこには在る。

このようにこの物語には本当にすっきり感がないけれど、そしてまた人間の、そういう「弱さ」を表現したものなのだろうけど、
もっとも興味深いのは、演じる吉右衛門さんがそのあたりをどのように解釈しておられるのかということだ。
おそらく吉右衛門さんも、直感的に「ココロを切り替えれば変わらない状況も乗り越えられる」ということはご存知のはずで(「自己犠牲」というものを時代による違いだけと捉えるのは少々不足なような気がする)、役としてあの感覚を捉えておられるのであれば、ご自分のなかでどのように昇華されているのだろう。
悲嘆にくれる魂を(しかも、自分はその悲しみを越える術をわかっているとしたら)演じるのは、どのような感覚になるのだろう。
それを超えてのお芝居でなければ、あのような芯のとおった、涙を誘うような演技にはならないと思うけれど。

見方がまだまだ浅いのだとは思うけれど、今の私が感じた素直なわりきれなさなので、いちおうメモしておこうと思う。
「俊寛」、きっとまた観てしまうだろうし、観たら泣くかもしれないなぁ。
吉右衛門さん限定かもしれないけど。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/01/09

ほんとのこと

ほんとに思ってることを
言う必要のないところは除いて
本気で相手に伝えるのは
とてもむずかしい。

すべて話したから「ほんと」というわけでもないし

話さないところもあるからといって「うそ」なわけでもない。

なんかさ、うまーくできないもんですかねぇ。
やっぱり、手間ひまかかるよねぇ。

「伝える」のって。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006/11/27

コンタクト

なんだかすごくめずらしくも数日間にわたって体調が良くないので
考えがいまひとつ浅はかだったりするんですけど

わかっているのに見えないふりしてたり
やってあたりまえを(知っていながら)逃げてたり
すると、ときにこういうふうになるのかも

いや かも じゃなくて そうなんだ。
だってわかってるんだもんね。
本来の自分にふれてみると ああ やっぱり なのだった。
(でもまだやってない。喝!じゃーないか)
…やろうよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/11/24

たいせつ

今週は全般的に体調が優れず、今日はなんとお仕事をキャンセルしてしまいました。。。フラフラしてるしとても行ける状態じゃなかったので…今日ご一緒の予定だった皆様ほんとにすみません。。。m(__)m
でも昨日お仕事でご一緒してた方が、具合悪そうだったのを気づかって「なにかできることはない?」と連絡をくださったり。
いつも仕事のお手伝いをしてもらっている方からも「お買い物とかしましょうか?」と連絡があったり、もうホントに有難かったです。
お医者様に行ってどうにか熱を下げてもらったりして明日はなんとかなりそうですが、こんなときのこういうお気持ちは、ほんとうに嬉しいものですね。
大切な方たちです。
私もお役にたちたいなと思います。

ところが一方、学生時代の大親友から年賀欠礼のハガキが。
お父様がお亡くなりになっていたのです。
もう全然知らなくて、びっくり!おかげんがあまり良くないのは知っていたのですが…。
なんにもいってくれないなんて、水くさいよ、、と思いつつ、私のほうにもそういう距離を彼女に感じさせてしまう雰囲気があったのかなと、反省しました。
ごめんなさい。。

たいせつなひとはたくさんいるけど、みんなを大切にしたい。
まだまだ、足りません。愛が。
もっと、もっと、ですね、いつまでも。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/11/01

水のはなし鬼のはなし

先日いたく感動した「安達原」は鬼の話でしたが、私は鬼にはじまるような異形のものが出て来る話が好きです。
鬼となってしまった、そしてこれからも鬼として生きて行かねばならない後悔や悲しみが感じられるからです。
ところで、「水からの伝言」では水は「鬼」と書かれた器に入れられると、ちょっと怖いような結晶を結んでいます。
「鬼」という言葉のもつ振動波が、負のものだという現れなのですが、ではなぜそういうものに惹かれてしまうのでしょう。

もともと人間には負の部分もあれば正の部分もある。
普通の人間が、負のエネルギーにうんと引っ張られてしまったものが「鬼」だといってもいいのではないでしょうか。
だから、鬼は「正」のエネルギーに惹かれるのですが、どうしても「負」に引っ張られてしまい、それが鬼の悲しさ弱さなのでしょう。
これは人間の心でもあります。
自分の中に、鬼になってしまえるような弱い部分を感じるからこそ、ある意味共感する。
でも、「安達原」でも他のどのお話でも、鬼は取り押さえられるところを見ても、けして人間にとってよい感情ではないはず。

共鳴はしても、そちらには引っ張られないようにしたいものです。
でも、自分の中にそういう部分も持ち合わせていることの自覚も大切だと思いますが。

ここ数日間書いて来たことを振り返って、そんなふうに思いました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/10/02

愛しいねえ

発見した本屋さんに頼んでいた「ブルータス」水族館号が、きました。
入荷した連絡をいただいたので、毎日仕事で遅くなる私は(いつとりに行けるかなと思い)営業時間をたずねたら、11時までやってるということで。
ありがたーい!
っていうことで、11時前に駆け込んで、とってきましたー(^-^)

おまけのDVDはまだ開封もしてないんですが(さすがにそこまで時間がない…)先日美容院で見たときには発見できなかった写真に、いたく心を奪われました。
ニュージーランドに住む「イエローアイドペンギン」という、絶滅の危機に瀕しているというペンギンの写真なのですが、
かなり遠くから撮影してるんだろうと思われるその海辺のシーンに、ちいさなペンギンがひとりだけ、写っているのです。
しかも、ひとりでぽつぽつと歩いているらしく、前に出た片方の足は宙に浮いてるその瞬間を、きりとっているのです。

私はいままでペンギンというと、集団でかたまっている写真しか見たことがなくて、たったひとりで海から上がって来たこのペンギンの写真に、びっくりしました。
解説文には、「夕暮れ時に一羽ずつあがってくる。用心深く周囲を何度も確認しながら…」とあります。
そんなに用心深くて臆病なのに、なぜ絶滅寸前なのかというと、ひとつには森林伐採、もうひとつには海を渡ってやってきた犬や猫に襲われることが主な原因らしいのです。
もともと住んでいたところをおわれ、もともとはそこの地域にはいなかった外来の天敵におわれているのです。

それでも、なんとか、ほそぼそと、がんばってきたんだろうなぁ。
この写真を撮影したカメラマンさんは、そういう状況をもちろんわかって撮影されているのでしょう。
写真からは、ひとりでがんばっていて、でも多くの危険にさらされているペンギンを、遠くから愛しさとはがゆさで見つめている雰囲気がみてとれて、そこに私は惹かれたのでした。

絶滅していくというのは、それなりの、自然の流れや必然性というものもあるとは思いますが(それは人間も含めてです)その原因に、人間が大きく関与しているのであれば、それは自然のしくみにかなっていないという側面もありますよね。
だからといって、○○を守ろうー!などと大手をふって活動するようなことも too much な感じでいまひとつピンときませんが、ひとりひとり自覚をもって気をつけなきゃいけないな、とは思います。
ほんとうは、あたりまえのことなのに「気をつけ」なければできないくらい、自然のしくみにかなわない生活を、私達はしてきちゃったんだなぁと、思います。
動物にも、植物にも、石や砂だって、「愛しい」と思って接したら、そんなふうにはならないんだろうになぁ。

などと、この一枚の写真をみて、おもいました。
美しい、いい写真でした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/10/01

日々、進化♪

なんかここのところ、すごいよくやってるなぁ自分。
仕事はしばらくパンパンなので、毎日がギリギリなんですが、なんとかやってるし
なのにけっこうお料理とかもしてカラダにも気をつけてたり
食材とかそのほかのものたちにも、自分なりに気をまわしてるし。
だけど日々、「もっと、もっと」がやってきます。
たいへんだけど、それはまっとうな「流れ」だと思ってます。
進化していくのに。
…ちょっと、真摯に、みつめてみた。うふ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/09/30

本質

とある方のお話を聞かせていただいて。
ものごとの本質とは、自分自身の本質とはなんなのかを、あらためてみつめることになりました。

私はインテリア空間をつくることを仕事にしていますが、その空間に来る人たち(やそこにいるものたち)が活性化することが空間の役割になればいいなと、思ってはいました。
でも、どうすればそうなるのかできるのか、なかなか明確にはわからなくて、流れにただ乗ってしまっていたりして。
なにが流行っているのか、なにが斬新か新しいか、なにがインパクトを与えるか。
デザインや広告はそういうものを求めている風潮が強くありますが(だってそうすると売れるから)、ほんとうに人が心から満たされるものは、もっと違うところにあると、私は観じているのです。

今日お話をお聞きして、それができるためには、自分自身を磨くしかない!とわかりました。
あちゃー!って感じですが、そもそも良くやるために方法論を求めてたほうが違ってたなとも思いましたね。
自分で気付いたことは実践する。
それはものすごく大それたことではなくて、毎日の小さなことの積み重ねです。
それが大きな力となって、いろいろなところに反映されてくるのでしょう。
モチロン、怠惰な自分も、周りに影響を及ぼすわけで、ほんとうに気をつけないといけません。
(水は低きに流れますからねー)
「自分くらい」とか「自分なんて」と思うことがイチバン危険なのだと、あらためて知らされ、
全力投球していても本質からでない場合があること(しかもその比率は高い!)を教えていただき愕然!でした。
本質をみつめ、直観から行動して、積み重ねていこう!とあらためて決心。
だからといって、肩肘はってくそマジメ(あれお下品!)に生きるのではなくて(笑)、毎日は楽しく過ごせるものなので、そうやって日々進化していけたらなぁと、思います。

そして。
この日この方のお話を聞くことができるようにサポートしてくださったみなみなさま、ほんとうに、ありがとうございます。
自分にとってまたとない大きな出会いとなりました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/09/24

秋の夜長

窓を開けたら、涼しい夜風と虫の声。
かすかにチリンチリンと、もはや季節はずれの風鈴の音。
すっかり秋も深くなりました。

ここのところあわただしいので、ちょっとキャンドルに灯をともし揺らいでいる火を楽しんでみる。
キモチがスゥーっと落ち着いてくる。
落ち着く、なごむ、というのは、自分の原点に還ってゆくという感覚に近い気がする。
ひとはおおもとは、ただ、ただ、平らかでゆったりしているものだと。
そういうとき、自分は宇宙のひとかけらなんだなぁと感じたり。

いろいろな感覚が、やってきては消え、消えてはまた次に移っていく。
ひとしきり観じたところで、火を消す。
キャンドルの香りと白い煙が、それらがあったのだと、かすかに知らせてくれる。
そんな、長い秋の夜。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/09/22

サポート

このところ急激に起こっているいろいろなことがすべてリンクしあっている。
いまの私の立ち位置には余りある、たくさんのサポートをいただいているようです。
サポートを、ありがとう。ありがとう。
無駄にせぬよう受け止めて気付いて行きたいと思います。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/09/10

うつくしい星☆

友人と話していたらひょんなことからプラネタリウムの話になりました。
私は昔からプラネタリウムが大好きで、会場内が暗くなって、さあこれからはじまるぞというときなんか、嬉しくて嬉しくて。
暗くてホントに良かったー!と思うくらいすっごいニッコニコしちゃったりしてたんですよ。

さいきん、プラネタリウムって減るいっぽうで、昔よく行ってたところは軒並み閉鎖されてるから、いまはどんなとこにあるのだろうと思って調べてみたら、けっこうあるじゃないの♪
特に、お台場のプラネタリウムは、話題のメガスターの投影で、毛利さんが館長なのね♪
一度ぜひ行ってみたいけど、すごく混んでるらしくて決意がいるなぁ…。
ほかにも、ほそぼそと地域の施設なんかで土日だけ投影してるとこがけっこうあった。
こんど行ってみようっと☆
だれか一緒に行ってくれないかなあ。(お誘い、おさそい♪笑)

さておき、ホントの星空を見るのもプラネタリウム以上に大好きで。
都会では夜空は明るくてあまりよく見えませんが、それでも少し暗めの道に入ったりすると、意外とたくさん見えてきたりするから不思議です。
遠く、星たちを見ていると、気持ちが落ち着いてきますよね。
この前、とある方がふともらした、美しいコトバを思い出しました。

「私達が星ぼしを見て美しいと思うように、
星ぼしからみた地球も、美しい星であれたらいいね」

今夜は雲で隠れている、星たちの光を思いつつ。
地球の光もたえないことを祈って。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/09/07

逆回転のひと

なんか違和感があると思うと、カラ回りどころか逆回転のひとがいる。
ところが逆回転のひとのすごいところは、それで戻ってきて、なんとも「まこと」らしい位置にいて、生き生きと魅力を振りまいているという。
でも、逆回転は逆回転なんだから、自然な流れには逆行しているわけで。

逆を逆と感じるには、まっとうな流れをまっとうに受け止める、素直な自分が必要なのだな。
むーーーん。
たくさんのサポートいつもありがとうございます。

たくさんのサポートのなか、今日もなんとか!
終えることができました。
モデルルームもなかなか良く仕上がりました。
明日は出張にも行けるし(そのために、他のものたちを今日これからやる!笑)
どんな状況でも「コレはやるんだな」と自分が感じるものは、やったほうがよろしいようです。
「すなお」がたいせつ。
どうか「すなお」な私でいられますように。

…今日のは、あまり意味わかりませんよねー。うふふー。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/09/05

空は高く

今日は真夏のような暑さでしたけど、さすがに朝夕は秋の風。
そして暑いとはいえお昼間も、空は高く秋の雲です。
なんだかんだいって、もう9月ですよー早いなあ。
そんな空に、今日は叔母をお見送りしてきました。
もうずいぶんと、長いこと重い病気だったので、叔母がいなくなるのは淋しいけど、叔母がいなくなって叔父のことが心配だけれども、でも体がつらかったりすることはもうないんだなぁと思うと、少しホッとした気持ちもします。

こうしてみんな生まれてきて、病気であったり、障害があったり、それ以外にも生活のなかでなんらかの壁が出現するということは、そのひとの、この「生」における「まなび」なのだと聞きます。
からだの自由を奪われたときに、そのひとなりに何を感じるのか。
経済的に苦しかったら、どう乗り越えていくのか。
ひとに背を向けられてしまったら、どのように自分を変えていくのか。
いずれも、「自分をみつめる」ことだと思うのですが、それはとてもツライことです。

叔母は、体じゅうがきゅうーっと縮んでしまって、晩年は息をするのもつらそうでしたが、いつも穏やかでした。
私たちの見えないところでは、泣いたりイラついたりすることもあったのかもしれませんが、少なくとも私は、叔母が声を荒げたところなど見たことがありません。
若い頃からおしゃれさんで、洋服や靴や帽子、どれもとても凝っていましたから、体型が変わっておしゃれができなくなって、淋しかったと思います。
誇り高かったのに、ひとに運んでもらわなければどこにも行けなくなって、つらかったと思う。
叔母は、どう乗り越えていったのかな。
どうやって、自分のなかでそれを受け入れていったのだろう。
きいてみたいけど、叔母はそれらも全部、もっていってしまいました。

私はそういう叔母をみて、自分をみつめてみる。
それぞれの「まなび」なのだと思います。

おばちゃん。
ありがとう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/08/21

一点ほどの痛み

今日はいちにち、お腹が痛かった。
だから、午前中にいろんな事務処理をして午後からはスタイリングの買い廻りに行って夜には実家に行こうと思ってたのに、順おくりにできなくなった。

アタマが痛くてもお腹が痛くても、私はもうここ数年、薬をのまない。
そのかわりに、どこが痛いのかなぁ、とゆっくりと感じてみる。
すると、最初はお腹ぜんたいが痛いと思っていたのが、だんだん、ほんとうに痛いところはほんの一点だということがわかってくる。
針先ほどの一点なので、ほかのほとんどのところはほんとうは痛くなかったんだ。
なので、ほんとうに痛いその一点に向かって、いたわってあげる。
そうすると、少しづつ痛みは和らいでいくのだ。
あーよかった、ありがとうー、と体にお礼を言う。

そんなことで、午後からは買い廻りだけはできた。
明日は少し、巻きでいかなきゃ、と体にまたお願いしてみる。

「痛み」というのはよーく見つめてみると、まわりの有象無象が取れてシンプルに見えてきますよね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/08/05

毎日が贈り物

昨日はそんなことで、ちょっと寝ようと思ったらものすごく深く眠ってしまい、(途中でいっかい起きようと思ったのにー)目が覚めたら外が明るかった!(ちょっとショック)
目覚めてもまだカラダが弛緩してる感じでしたよ。
いろんな、たまってたものがゆるゆるになって放出されてるのかな。
なんか「やろうやろうと思ってること」で自分を締めすぎてたかな。
そういうことじゃなくて、やることがほかにあるんだなきっと。
そう思ったら、朝まで寝ちゃったことも、とても自然で。
流れが戻ってきたような気もして。

そうしたら。

さらなるものが今日届きました。
これは、お友達がプレゼントしてくれたものなのですが。
なんか、さらに共鳴してしまいましたよー。
家じゅうの波長がシフトアップしましたよー。
もー、なんていっていいかわからないー♪うれしいー♪

ありがとうございます。
日々、感謝感謝ありがとうの連続です。うふふー♪
…わけわかんないですよねみなさま。。スミマセン。
とりあえず毎日は感謝で成り立つ、って感じでしょうか。うふ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/08/04

すなお

今日は、とても純粋なエネルギーのものが私のもとにやってきてくれました。
とりたてて存在感があるとか、パワーにあふれているとか、そういうカンジではないのですが、とても安定しておだやかな波長のものです。
うれしいなぁ。

で、今日は家に帰って来てからとっても眠いなぁーと思っていたのですが、どうもカラダがその波長に反応してたような気がします。
おだやかに、解きほぐされて、リラックスしたのでしょうきっと。
なので、今日はまず、ちょっくら、寝まーす。
おやすみなさいzzz

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/07/22

なの。

本を読んでいたりすると、ものすごくイメージが想起されて、あっという間に音声香りつきで脳内映像化されてしまったりするものもあるし、どう理解しようとふんばっても、かけらも出てこないものもある。
これはひとえに私自身の経験やフトコロの深さがモノをいっているらしい。

今日、電車の中で向田邦子さんと中川一政さんの対談を読んでいた。
対談なので、もちろん話しコトバでつづられているのだが、中川さんはしきりに「〜なの」と連発していらっしゃる。(「イタチ捕りに間違えられたの」とか「本当なの」とか)
国際的な画家で、なんだか怖いイメージのある(画風も情熱的だし)中川さんが、そんなふうにお話になるとは。
そう思ったら対談の中身などアタマにはいってこない。
「〜なの」といっているときの中川さんの声のトーンとか、イントネーションとか、どんなだったのだろうといくつも(思いつく限り)パターンを考えてみるけれど、どれもヘンで、しっくりこない。
そしたらそのうちに、対談の中で「(中川さんの)お年は88ですね」という会話が出てきた。
とたんに、「あーそういうおじいちゃんいるいるー!」とストンとはまってしまった。

こんなことでストンときてしまう自分の浅さにガッカリしながらも、そういう視点で読んだらすんなり内容もアタマにはいってきた。
いつどこで自分の経験不足思慮の浅さを補っていただけるかわからない。

こんな風にして、いままで「寝ていたコトバ」がにわかにむっくりと「起き上がってくる」瞬間は、なんとも楽しいものだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/07/21

伝えるということ

いつもひとこと足りなかったり、言い過ぎたりしてしまって、「ちょうどよく伝えられた」ということが少ないように思う。
その前に、伝えたほうが良いと思ったことを、伝えずじまいになることも多い。
それは、ちょっと耳の痛いことを伝えるときとか特に、「相手になんて思われるか」という恐れがブレーキをかけるのだ。
でもそういう場合はむしろ伝えなかったことのほうがあとあとダメージが大きかったりする。
そもそも、伝えたほうが良いかどうかは、直観に従ったら良いので、アタマで考えるようなものじゃない。

なんてことを、クリエイションな集まりで、おいしいごじるをいただきながら、語りあった夜でした。
花火大会の夜でした。
夏はそろそろ来るのかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/07/20

雨つづき

まいにちまいにち雨ですね。
梅雨なのですから、雨が降ってあたりまえなのですが、それにしても降りますね。

雨のおかげで私達は命の源、お水をいただけるし
お米も野菜も雨が降らなければ育たない、
ホントに必要な、ありがたいものですが
「過ぎる」というのはどういう現象なのでしょう。

なにかがバランスを崩し始めたとき、
なんとか保とう保とうと懸命になっていたのが
ガマンしきれなくなって堰をきったように傾れてしまうような。
そんなことが地球のあちらこちらで起きているように思えてなりません。

「被害」がこれ以上にならないように祈るばかりです。
同時にもっと根本的なところで私にもできることがあるのではと思います。
とりあえず行動。ですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/07/05

それでも回る?

ドイツが負けて、イタリアが勝った。
私はドイツを、ちょっと応援していた。
イタリアにはハンサムが多かったけど。

雨の一日だったけど、今日は外に出ないで
モデルルームのプランをする。
窓の外の雨を眺めるのは、ちょっとシアワセ。

お隣の某国があやしいものを打ち上げている。
これでもかこれでもかズドンズドンズドン。
そんなにやっても、誰もわかってくれないよ。

お隣の家のバルコニーの風鈴が、
のんびりと涼しげな音を一日鳴らしている。
先週末に来た恋人が付けていったみたい。

いろんなことが、いっぺんに、いろんなところで起きている。
でも地球はいつでも変わらずブンブンまわっている。
何があっても必ず朝がくることを、
私達はどうして疑わないでいられるの?

| | コメント (0)

2006/07/01

好きなもの

好きなものはたくさんありますが、時々「それは本当に、自分自身が好きなものなのか?」と思うことがあります。

たとえば私はドビュッシーが大好きですが、それは、一緒にピアノを習っていたお姉さんがドビュッシーを、それはそれは唄うように弾いていて、とても素敵だったからです。そして、そのひとのドビュッシーの素敵さを、母が夢みるように語ってくれたからです。

コルビジェのロンシャンの教会は、何度みても(まだ実物をみたことはありませんが)好きです。これもインテリアの学校に行っていたころ、講師としていらしていた建築家の先生が「ほんとうに素晴らしい」と熱っぽく語ってくれたから。そして尊敬するYさんが、「何度みても惹かれる」あの建物の、あの光のわけを教えてくれたから。

日本画家の吉田善彦さんの絵も好きです。男性とは思えないような優しい画風に惹かれたのもありますが、なにより私の日本画の先生がわざわざ展覧会に連れていってくださって(ちょっとした小旅行でした)吉田善彦さんがどんなに優しい方かをお話くださったからです。
先生ご自身、とてもすごい描き手でいらして、なおかつもうおばあちゃまでしたが。恋する少女のように可愛らしい先生を見て笑顔になってしまいました。

こんなふうに、ひとに影響を受けて好きになったものが山ほどあります。
それは、その人が、そのシチュエーションが、好きだったのか。それともほんとうに私自身が好きなものなのか…と時には思うわけです。それでは、「私自身」とは何かと。

けれども、自分に共鳴しなければきっと好きにはならないだろうし、もしそうでなかったとしても、それは私が共感しているそのひとが、私にもってきてくれた贈り物なのでしょう。
そうやって、自分の目がどんどん、開かれていくのだろうと、
そうやって、自分自身が、形成されて進化していくものなのだろうと、思います。

| | コメント (0)

2006/06/26

そういうふうに運んでいく

「その時さいしょに思ったこと」を大切にしている。
それは些細なことからかなり重大な決断まで、一貫してはずれない。

たとえば、私の持っているお化粧品の、眉ペンとリップライナーは、同じデザインのホルダーに入っていて、外からは見分けがつかない。(実は見分け用のシールが付いていたけど、ものぐさな私が使ってないだけ)
でも毎回、なんとなく「こっちが眉ペン」「こっちがリップライナー」と思ったほうを手に取ると、間違ったことはない。逆に「そんなわかるわけないじゃない」なんて思うと、途端にはずす。

電話しようと思った時、お昼時なことに気づき「あぁご迷惑かしら」と思ったりするけど、最初に思ったカンを信じてかけると、相手に「今日は手が離せないからお昼しか電話にでられなくて。ちょうど良かった」などと言われたりする。

今日も「チョコレートが食べたい!」と思い2粒3粒口にした。そのあとずっと食事を取れない流れになり、チョコレートが元気をつないでくれた。
思ったその時に電話した方は、いつもすごく忙しい方だけど、30分も時間をとって話をしてくださった。で、その方をはさんでの様々なコミュニケーションをとても良い流れに乗せることができた。

ちなみにチョコ食べたいと思ったのは駅のホームだったし、忙しい方に電話しようと思ったのは夕食時だった。2番目に思うこと(駅のホームだし、夕食時だし、、やっぱりやめよう、なんてこと)を優先しがちな状況ではある。
(但し、その際もう一度「自分が本当にしたいと観じるのはどちらか」良く見つめると、最初に思ったほうだったりすることが多い)

そういうことが、いつもスムーズな流れを運んでくれる。そうでないと、回り道したり、自分がとても疲れたりする。
「直観」とは、そういうものらしい。
ただ、きちんと「直観」を観じることができるためには、自分の余分を削ぎ落とし、クリアーにならないと。一生懸命、クリアーに。

| | コメント (0)

2006/06/09

つながってくるもの

紹介された業者さんの担当者の名前が、偶然にも紹介者と同じだったり。
あのひとどうしてるかなー電話してみようかなと思ったら、電話がかかってきたり。
なにかを一緒に始めようかといった相手が、同じ場所の出身だったり。

こんなことが毎日いくつもある。

今日も、前からちょっとカンジのいいひとだなーと思ってた人が、
私が以前よく出没してた場所に頻繁に行ってたことがわかり。
なんか嬉しかったなー。

それはつながりたいと思ってのことか、自然につながる縁なのか。

いっぽう。
なんだか色々やってるのに、なかなかスムーズに行かないことは、あまり望ましくないつながりのものなのか。
気付いて止めるか、
気付いてあえて受け止めるか、
気付かず流れに任すか。
気付かないのはつらすぎるけど、あとはそのときの観じ方で、ってことで。


| | コメント (0)

2006/06/06

行ってはいけない場所

友人宅に行って遅くなったのでいつもと少し違うルートで帰る。

途中に、こんな都会の一等地なのに何故かずぅっと空地の場所があって、そこにはいくつかの(本当かはわからない)ストーリィがある。
それはちょっと、ぞっとしないでもない話なのだが、さらにその話が本当かもと思わせるのは、そこには1本だけ桜の木があって、毎年必ず、どこの桜よりも早く花を咲かせるのだ。

空地といったら、普通子供の格好の遊び場だったりするが、そこで子供が遊んでいる姿は見たことはなく。
たまに犬の散歩の人を見かけることはあったけど、なんとなく私はその場所には入れない。
ものすごく、足を踏み入れられない場所だった。
噂とか、そういうことでなくて、踏み入れられないエネルギーがその土地にあった。

でも今日久しぶりにそこを通ったら、工事のフェンスが立てられていて。
なにができるのかはわからないけれど、「ついにきたか」と思った。
気持ちがざわざわする。

あのエネルギーの場所になにかが建つ。
すごいことだ。
エネルギーをわかってなくて建てたら、たいへんなことだろうし
わかって建てるのなら、大きな動きと共生してゆくことになる。
覚悟が必要なことだ。

子供の頃から、たとえば親に「行ってはいけない」といわれている場所には、それぞれそれなりの理由があり、その場所のエネルギーに対して自分が相応に受け入れる懐を持てるようになるまで、生半可には近付けないものなのだ。

| | コメント (0)